JR脱線「傷ついたから命を語る」 発生19年 自責の念、妻の障害…いま「苦しむ人が声をかけてくれる」

2両目で事故に巻き込まれた小椋聡さん(左)。妻の朋子さんと現在の心境を語ってくれた=兵庫県多可町(撮影・笠原次郎)

 あの日見た光景は長い間、まぶたの裏から離れなかった。尼崎JR脱線事故で負傷した小椋聡さん(54)=兵庫県多可町=は、最も多くの犠牲者が出た2両目に乗っていた。ひしゃげた車体の奥では血まみれの乗客が苦しみ、小さなうめき声がいくつも聞こえた。そして、19年たって思う。事故に遭ったから、今の自分はいる。

 2005年4月25日。大阪市内の会社に向かうため、快速電車の車両後方に乗った。7人がけの端に座り、横揺れを感じた直後だった。「卵のパックをぎゅうっと握りつぶすのと同じように、車内のスペースが奪われていくのを見た」

 シートやつり革のポールが飛ばされた。小椋さんは車両前方で、折り重なった人の間に右脚を挟まれ、宙づりになった。くの字に曲がった車体の天井は裂けていた。

 車内には片目を失った人、頭皮がめくれた人がいた。車両を抜け出して負傷者に水を飲ませ、「目が見えない」と体を震わせる女性の手を握った。

 知人は「助かって良かった」と電話をくれたが、思いが頭をかすめた。「他の乗客を押しつぶして、自分が助かってしまったのではないか」。右脚を骨折していた。むち打ちの治療は、事故から3年ほど続いた。

      ◇

 直後から遺族らでつくる「4.25ネットワーク」に加わった。最愛の人の最期が分からない遺族に頼まれ、犠牲者の足跡をたどる活動を始めた。

 現場にいた人から情報を募る会を開いた。靴や服の色、手にした本を手がかりに乗車位置が分かった人がいた。負傷者と家族による手記集の出版、事故後の車内の様子を描いたアクリル画、車両の模型の制作に取り組んだ。

 そんな中、ともに遺族や負傷者らを支援した妻朋子さん(55)が、身近な人の体験に影響を受ける「代理受傷」で双極性障害を患った。朋子さんを支えようと08年に会社を辞め、デザイン事務所を立ち上げた。

 動物を通じて命の大切さを子どもに伝える教育プログラム、教材を開発した。集団予防接種によるB型肝炎ウイルス被害者の手記の編集も手がけるなど、社会課題と向き合った。

 会社のホームページでは脱線事故に触れず、「負傷者」の肩書を仕事に持ち込まなかった。「たまたま経験したことを経歴にするのはどうかと」

      ◇

 しかし最近、思いに変化が生まれたという。

 ある仕事仲間の女性は「遺族や奥さんと接し、命の重みを理解している。仕事にささげる情熱を表す体験だから、もっと脱線事故のことを出していい」と助言してくれた。

 昨年参加した地元商工会の事業改革セミナーでは「命」「死」といったテーマに対し、思い入れがあると指摘を受けた。

 13年に転居した多可町の暮らしぶりなどを紹介する投稿プラットフォームで、自己紹介欄に「JR福知山線脱線事故で負傷」と記した。会社のホームページには「多くの死に直面した経験から『いのち』に向き合うことができる内容や『人が幸せに生きていくためのコミュニティーづくり』などをテーマに事業を行います」と書き入れた。

 「悩み、苦しんでいる人が、脱線事故の負傷者と知り、声をかけてくれることが増えた」という。

 小椋さんは今月、丹波市内でした事故の体験などのスピーチをこう結んだ。

 「隣にいる家族も明日はいないかもしれない。人との関わりを見つめ直すと、大事なものがそばにあると気付けるはず」(千葉翔大)

© 株式会社神戸新聞社