試合直前に「給料下げる」…球団代表が“問題発言” 元ドラ1、中日フロントと関係悪化

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

田尾安志氏は4年目で初の規定打席到達も…数字は思うように上がらなかった

歯がゆいシーズンが続いた。元中日外野手の田尾安志氏(野球評論家)はプロ1年目の1976年に新人王に輝いたが、2年目以降、納得いく数字をなかなか残せなかった。「プロには1年目から3割を打ってやろうと思って入っていましたからね」。打率は1年目が.277、2年目は.276、3年目は.274。出場試合数は増えていったが、横ばい状態。4年目に初めて規定打席に到達したが、打率.251に終わった。おまけに球団フロントともギクシャクしはじめたという。

プロ1年目の後半戦の活躍で自信をつけた田尾氏は1977年シーズン、2年目の飛躍を目指した。しかし、そううまくはいかなかった。井上弘昭外野手の復調や、新外国人ウィリー・デービス外野手の加入もあって、再び代打からスタートとなるなど、96試合、152打数42安打の打率.276、6本塁打、19打点で終わった。8月にデービスが故障離脱した後にスタメンが増えたものの、爆発的な活躍はできなかった。

そんな中、思い出すのはデービスのことだ。「ドジャースのスーパースターだった人ですからね」。田尾氏は大学時代、日米大学野球選手権大会の日本代表メンバーとして米国遠征した際、ドジャースタジアムでデービスのプレーを見たという。「あのストライドはマネできませんよ。向こうは芝生がちょっと長いので打球速度が遅くなるのかもしれませんが、ちょっと右寄りのセンター前ヒットを二塁打にしたんですよ」。

デービスは中日でも1977年5月14日の巨人戦(ナゴヤ球場)で右翼フェンス直撃の打球を放ち、ボールが転々とする間にすさまじい速さでダイヤモンドを一周するランニング満塁ホームランを記録した。田尾氏は「一塁から二塁に行くまで10歩もかかっていなかったと思う。あんなの見たことなかったですよ」とうなる。「いつもカセットデッキを2つ持って新幹線とかに乗っていた。お経のヤツと普通の音楽のヤツ。変わった人でしたね」と懐かしそうだった。

そのデービスがオフにクラウン(現西武)へ移籍したこともあって、1978年、プロ3年目の田尾氏はスタメン機会を増やした。だが、シーズン終盤に故障離脱するなど、不完全燃焼の打率.274で終了。4年目の1979年は「2番・右翼」でプロ入り初の開幕スタメンを勝ち取り、初めて規定打席にも到達したが、打率は.251。「もっと数字が悪くなりましたからね。納得できなかったですよねぇ」と苦しい時期だった。

“ハッパ”かけられた球団代表に直言…貫いた自身のポリシー

そんな不調のシーズン中には中日・鈴木恕夫球団代表との関係も悪くなったという。試合開始直前に「今年は給料を下げるかもしれない」と言われてカチン。「『今から僕らはあそこに“戦争”しに行くんですよ。お金のことなんて一切考えていません』って言いました」と田尾氏は明かす。鈴木代表にしてみればハッパをかけようとしたのかもしれないが、選手側にしてみれば、いくらなんでも声をかけた内容とタイミングが悪すぎるということになる。

もちろん、相手は球団代表。誰もが言い返すわけではないだろうが、田尾氏は「人間と人間の付き合いという意識が、僕にはどの人に対してもあるのでね。あまり(相手の)肩書きで変えたくないなっていうかね。そういうのはずっと思っていました」と言う。「(鈴木)代表にはいろいろ言われました」と振り返るが、同時に、それを発奮材料にもしている。

「契約更改で代表から盗塁が少ないと言われたら次の年、盗塁を増やしたし、ホームランが、って言われたら、次の年、ホームランが増えましたからね」。4年目の1979年が盗塁0だったのが、5年目の1980年に自己最多の16盗塁。8年目の1983年は13本塁打だったが、9年目の1984年は20本塁打をマークした。いずれも、鈴木代表の言葉に、火がついてのことでもあったわけだ。

自己ワーストの打率.251に終わった4年目までは思うような結果を出せず「こんなはずじゃない、と思いながらやっていましたねぇ」と田尾氏は語るが、ここから野球人生の流れも変わってくる。「一番数字が悪かった4年目のオフに結婚しました。ウチの女房はラッキーと思う。いい時に結婚すると後がしんどいんでね」。実際、宏子夫人と結婚してから、田尾氏はプロの壁を乗り越えて、成績もグンとアップしていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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