結局「チー牛」って誰なのか…馬鹿にされ、自業自得と言われ「現代の差別のど真ん中にいる人たち」男の25%を占める「弱者男性」の悲惨さ

現代は女性差別が問題視されるいっぽう、男性がバカにされることはいまだによく見かける風景である。たとえば、コミュニケーションが苦手な女性がバカにされることはほとんど無いが、男性は常に貶められる。その現象を端的にあらわすのが「チー牛」という言葉である。エッセイストのトイアンナ氏が解説するーー。

※本稿は『弱者男性1500万人時代』(扶桑社新書)から抜粋・再構成しています。

第1回:

第2回:

婚活で冷淡でも成婚する女性、孤立する男性

よく、男性はコミュニケーションが苦手だと言われやすい。女性はコミュニケーションが得意で、男性はコミュニケーションが不得意だから、孤立しやすいという説だ。だが、それは本当だろうか?

コミュニケーション戦略研究家の岡本純子氏は、男女にコミュニケーション能力に差があるとは言えない、としている。ただし、女性は何も話題のネタがなくてもコミュニティの輪に入りやすいが、男性の場合は「カネとコネとネタ」がないと相手にされないという。

筆者は婚活に励む男女を長年支援しているが、同じように感じる。婚活では特に、男性は積極的に行動すべきとされる。最初に話をメッセージで盛り上げ、デートを約束し、それっぽいお店の候補を出し、当日話題を振る役割を担う。対して女性はおしとやかさを求められるが、積極性は問われにくい。そのため、コミュニケーション弱者でも結婚しやすい側面がある。

女性は美人なら、若ければ、結婚できてしまうが…

たとえば、婚活をする男性から女性へのクレームで最も多いのは、

「女性がまったく話をしてくれなかった」

「はい、いいえくらいしか言ってくれなかった」

といったものである。

仮に、お見合いで男性が女性へこのような対応をしたら、結婚できる可能性はゼロである。だが、女性の場合はこれでも美人なら、若ければ、あるいは資産など他の魅力があれば結婚できてしまうことがある。

さらに、男性は結婚できないだけでなく積極的にバカにされる。ネットスラングで「チー牛」という言葉がある。

「チー牛」という新しい蔑称

チー牛とは、牛丼屋で「三色チーズ牛丼を注文する若い男性」の自画像が、発達障害者やオタク、ネクラに多そうだという偏見から広まったものである。もともとはイラストを描いた方の自画像だったが、しだいに差別意識を表明する者によって転載されるようになった。

いびりょ(X:@ibiryo_sun)氏がブログに投稿した「三色チーズ牛丼を注文する若い男性」 のイラスト

もしこれが男女逆転していたらどうか。「三色チーズ牛丼を食べていそうな女は、情けで優しくすると急につけあがる、距離感の詰め方が異常、仲良くなっても面白くなくて不快……」などと書いたら炎上必至だが、少なくとも2024年4月現在、男性相手ならそうならない。

むしろ、「チー牛」は根暗な男性、コミュニケーションに難がある男性を迫害する言葉として、ネットに定着した風ですらある。男性差別は、いまも笑いの種だ。チー牛とは、男らしさを持たない男性に対する烙印なのである。

男らしさから降りることも許されない

では、そのような男らしさを強いる、男性社会から降りればいいではないか。というのも、よくネットで言われていることだ。しかし、これに対しても反論がある。

2023年に「男らしさから降りればいい」という、SNSの投稿があった。その投稿を見たある男性が「だったら、怖い人に絡まれたときに、怯えて逃げる男性と添い遂げてほしい」と反論が届いたのだ。

それに対して、元の発言をした女性は「それは弱い男ではなく、卑怯な男だ」と切り返した。だが、そうだろうか。「土壇場では男は女を守るもの。そうでなければ卑怯である」という前提がそこにはないだろうか。女を置いて逃げる男は、男ではないと認識していないだろうか。

男性はまだ男らしさの呪縛に、がっちりと囚われている

そこに、男性が「男らしさ」から降りられない構造がある。そして、未婚であることが社会的に大きなスティグマとなりうる男性にとっては、女性から恋愛対象として”ないわ”と軽蔑されることが、あまりにも大きなマイナスとなるのだ。

もし、本当に「男らしさから降りて」も平等に扱われるなら、降りたい男性は多いだろう。だが、暴漢に脅されて泣きながら女性にしがみつく男性は、モテない。同じシチュエーションでも女性なら立ち向かおうが、泣きつこうが恋愛対象になるのとは対称的である。

念のため付記するが、日本で女性に対する差別がないとは言っていない。ただ、この数十年で女性が「女性らしさ」から少しずつ開放されてきた流れとは裏腹に、男性はまだ男らしさの呪縛に、がっちりと囚われている。男らしさは構造的な問題であるがゆえに、男性個人が「降りた」と反旗を翻すだけでは、価値観をひっくり返せないのだ。

それでも自分を責める弱者男性

ところが、そういった状況を多くの男性は「自分のせいだ」と責める。なぜなら、世間へ「自分をチー牛などとバカにするのは差別だ」と訴えようものなら、さらに笑いものにされたり、罵倒されるからである。

たとえば、女性がSNSなどでレイプ被害について発言しても「お前が気をゆるめていたんだろう」「お前の防御が足りなかったからだ」「本当は売名目的だったんだろう」「何らかのメリットがあって寝たんだろう」などと平気で言われることがある。そういった声は、現在は減りつつあるものの、完全になくなってはいない。

それと同じく、弱者男性が「自分が弱者になってしまったのは、日本社会のせいだ」「非正規雇用が悪い」と、社会や周囲に理由を問うコメントをすると、たとえそれが事実であっても「お前のせいではないか」とバッシングを受けやすい。

何が原因であっても、「同時代に成功していた人もいる。だから弱者になったのはお前のせいだ」と言われてしまうのが、まさに弱者が弱者たるゆえんである。

現代の差別のど真ん中にいる人たち

誰が弱者で、どのような理由で弱者になって、どういう支援を受けるべきかについては、弱者が語ったところで聞いてはもらえない。なぜなら発言の場においてすら、弱者だからである。

弱者男性の当事者に話を聞くと「自分たちは不可視化されている」「存在すら認めてもらえない」といった言葉がよく出る。

つまり、権力を持っている側が「あなたは弱者である」と認定していない段階にある、現代の差別のど真ん中にいる人たちである。いかに苦境を語っても、認めてもらえなければ意味がない。生きづらさを言うだけ無駄であり、「もういいです」「悪いのは自分です」と世間に合わせて認識を改めたほうが、世間の声と闘うより苦痛が少なくなる。そういった場に、弱者男性は置かれている。

書籍『弱者男性1500万人時代』では、こういった「男らしさから降りることも許されず、さりとて男らしさを手に入れる権利を奪われてしまった弱者男性」を多数取材した。また、膨大なデータに基づき、日本における男性の生きづらさを可視化している。

トイアンナ『弱者男性1500万人時代』(扶桑社新書)

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