50年前、広島県の野呂山にJAF公認サーキットがあった

1969年、1日平均950台の車が訪れていたころの野呂山※モノクロ写真をアプリでカラー化しています

 今から50年ほど前、広島県の野呂山(現・呉市)に、本格的なサーキット「野呂山スピードパーク」があったのを知っていますか。鈴鹿サーキット(三重県)、富士スピードウェイ(静岡県)などに続く、数少ないJAF(日本自動車連盟)公認のサーキットでしたが、石油危機などの影響を受け、わずか5年で幕を閉じています。まるでレースカーのように熱く短い期間を駆け抜けたサーキットの模様を過去の中国新聞の紙面からたどり、タイムスリップしてみましょう。

 オープンは1969(昭和44)年10月19日。翌20日の夕刊に「若い血をたぎらせ/野呂山スピードパークオープン/スピードとスリル満喫」の記事が出ています。

 快晴の日曜日、本格的なサーキットを一目見ようと5000人近い人が集まりました。コースは「幅員15メートル、全長1700メートル。直線部300メートル、すり鉢を思わせるバンク、それに続くヘアピンカーブなど変化に富んでいる。完工式に続いてプロレーサーが鮮やかなハンドルさばきを見せ」たと、詳細に報じています。

 JAF公認として初のレース形式の大会が開かれたのは翌1970年です。10月5日付夕刊に「スピード〝天下ご免〟/野呂山のレース場/雨中で自動車レース」の見出しがあります。

 JAF公認となったのは、オープンから11カ月後の1970年9月16日でした。10月4日に開かれたレースには雨の中、プロのレーサーを夢みる60人余りが参加しました。大会名は「オータムレースフェスティバル」。この記事では「1.4キロの起伏に富んだコース」となっています。

 当時のモータースポーツを取り巻く環境について「中四国でB級ライセンス保持者が約1500人。同好者の集まりでJAF(日本自動車連盟)加盟のモータークラブは約30ある」と、年々ファンが増加している状況を伝えています。

 集まったのは「徹夜組を含め、広島、岡山を中心に千余人」。当時、JAF公認サーキットは5カ所程度しかなく、全国でも希少な存在でした。現在は全国13カ所で、中国地方にはTIサーキット英田時代にF1も開催された岡山国際サーキット(岡山県美作市)があります。

 野呂山の観光開発が急速に進んだ背景に1968年7月、有料道路「さざなみスカイライン」の開通がありました。山頂までマイカーやバスで気軽に登れるようになったのです。この年に遊園地の「野呂観光遊園」ができ、国民宿舎「野呂ロッジ」、県営キャンプ場、バスセンターなどの施設も続々とできていきました。

 行楽地としての地位を確立していった野呂山ですが、人が集まるとトラブルもつきものです。1971年9月22日付「せっかくの展望に〝目隠し〟/野呂山山頂付近/私道沿いトタン塀/頂上の観光遊園地業者/レース見物で交通渋滞」では、厳しい意見が寄せられています。

 山の自然、内海の展望を売りものに観光開発が進んでいるはずなのに、私設遊園地へ通じる登山道(私道)沿いの長区間にトタン塀が張られて展望がさえぎられたため、ハイカーたちから「せっかくの山の景観が台無し。もっと自然を守れ」と苦情の声が上がっているとの内容でした。

 さらに、1971年11月19日には「野呂山俗化に『待った』/騒音まく娯楽/自動車レース場や射的場/撤去し緑に戻せ」の記事が続きます。「総額4億5000万円にのぼる自動車レース場やコースターなど施設を造成、営業を始めたとたん、自然保護の声が高まり『騒々しくて山の雰囲気を台無しにする』と県から観光事業に待ったがかかった」のです。

 県の調べによる騒音は、8~10台走行のレース時のコース外側で77~78デシベル、約200メートル離れた十文字ロータリーで61デシベル。80デシベルはかなりの騒音、60デシベルはデパートの店内などに匹敵する程度とされています。景観や騒音の問題は、野呂山特有の事情というより、開発を進めるか、それとも自然を守るのかという、高度経済成長期の日本が抱えていた問題そのものともいえます。

 そんな一大観光地だった野呂山ですが、スピードパークは1974年に終わりを迎えました。

 騒音などの苦情に加え、打撃となったのは石油危機です。1973年10月に勃発した第四次中東戦争以後、原油価格が急騰しました。ガソリンも値上げされ、生活に打撃を与えます。

 1974年1月22日付の呉版のトップは「石油危機で交通異変/車の流れ2割減」の大見出しでした。モータースポーツに対する冷たい目だけでなく、マイカーで出かけるレジャーそのものが敬遠されていったのでした。

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