アンドリュー・ヘイは山田太一の物語をどう映像化した? 『異人たち』が描いたテーマを考察

日本の映画、TVドラマ、演劇に大きな足跡を残した脚本家・山田太一。2023年11月に惜しくもこの世を去ってしまったが、その仕事の数々は多くの人々に記憶され、後世に影響を与えていくことだろう。そんな山田太一の書いた小説で、故・大林宣彦監督によって1988年に映画化された一作でもある『異人たちとの夏』が、イギリスで再び映画化された。それが、アンドリュー・ヘイ監督の『異人たち』である。

アンドリュー・ヘイといえば、『さざなみ』(2015年)、『荒野にて』(2017年)などで先鋭的で繊細な感覚の映像美と人間描写を、脚本を兼任しながら描いてきた映画監督。ベルリンやヴェネチアの名だたる映画祭で受賞するなど、とくにアーティスティックな面で国際的な評価が高い。

本作『異人たち』も、現在までに28もの賞を受賞し、ロサンゼルス映画批評家協会賞では脚本賞を獲得している。ヘイ監督は、山田太一の創造した物語をどのように解釈し直し、自分の表現につなげたのだろうか。ここでは、本作の描いたものを振り返りながら、それを考察していきたい。

日本文芸大賞放送作家賞、第1回山本周五郎賞を受賞した、山田太一によるオリジナル小説『異人たちとの夏』。その物語の主人公は、妻子と別れて孤独な生活をするシナリオ・ライターの中年男性だ。それまで事務所にしていたマンションで暮らし始めた主人公は、すさんだ気持ちのまま、同じ建物に住む若い女性に対してぞんざいな対応をしてしまう。

ある日、彼は子ども時代に住んだことのある浅草に出向くと、やはり子どもの頃にこの世を去ってしまったはずの両親と何故か出会い、語り合うことになる。果たして、二人は幽霊なのだろうか。主人公は、久しぶりに両親と団欒を囲んだ経験が忘れられず、何度も二人のもとへ通い、やがて生気を失っていくことになる。まさに怪談のような筋立てだが、それを描く筆致は現代的でエモーショナルである。

そんな主人公に対して、彼の恋人となったマンションの女性は、「両親にはもう会わないで」と語りかけ、死に向かおうとする主人公を押しとどめようとする。物語は、このような流れで、異なる世界の人々との交流を、ひと夏の不思議な経験として幻想的に描き出していくのだ。この内容は、大林宣彦監督による映画版も踏襲している。

イギリスでのリメイク作である、本作『異人たち』は、オリジナルの展開を大筋で再現しながらも、舞台を1980年代のイギリスに移し、登場人物の人種を変更している。さらに異なっている設定は、アンドリュー・スコット演じる主人公アダムがゲイであるという点だ。この変更によって、恋人役も女性ではなく、ポール・メスカル演じるゲイ男性のハリーが創造された。ここで、同じくゲイの主人公が高層の部屋に住んでいるという設定の、ヘイ監督の過去作『WEEKEND ウィークエンド』(2011年)を想起する観客も少なくないだろう。

ヘイ監督は、本作を「これまでで最もパーソナルな作品」だと述べているように、自分の性的指向を含めたパーソナリティを、『WEEKEND ウィークエンド』同様、本作でもアダムに投影しているのである。とはいえ、監督の両親は健在だということなのだが。

アダムが子ども時代に両親と暮らし育ったとされる、劇中で映し出される家は、実際にヘイ監督が子ども時代に暮らした場所であり、今回わざわざ撮影のために許可を取って、本作の舞台の一つにしているという逸話も興味深いものだ。アダムの自室を飾る壁紙やポスターは、監督の子ども時代の部屋をできる限り忠実に再現しているのだという。このことからも、本作はヘイ監督自身のパーソナリティのみならず、ノスタルジーをも色濃く表現したものだといえるだろう。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドや、ペット・ショップ・ボーイズなどのクィアなバンドの曲が流れるように、本作は性的少数者の表象とともに、ヘイ監督の思い出深い子ども時代の1980年代の思い出を投影したものとなっていると考えられる。アダムと再会することになる父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)の時間も、二人が死去した、その時代で止まっている。そして彼らは同性愛者に対して、時代なりの偏見を持っているのである。

そんな二人に対して、アダムは中年になって初めて自分がゲイであることを告げる。両親は動揺し、軽率な言葉を投げかけてアダムを傷つけてしまうのだが、その一方で息子に深い愛情を持っていることも、その演技からは感じさせる。本音をさらけ出して対話していくなかで、父母はアダムへの理解を深め、息子が誤った道に進んでしまったと拒否したり罵倒するのではなく、ゲイであることがアダムという存在の一部であることを受け入れるまでに至るのだ。

この主人公が経験する孤独感や、対話の端々には、当事者としてのリアリティが反映され、ロジックだけではない、監督の心の奥底からの感情が宿っていると感じられる。家族へのカミングアウトと、そこで生じ得る偏見による対立や、理解への道筋が描かれることで、本作にはオリジナルにはないテーマが生まれることになった。

山田太一は、1976年から1982年まで放送されたドラマシリーズ『男たちの旅路』で、高齢者や車椅子ユーザーの視点から物語を描き、現在大きな流れとなっている、社会を多様な目線から捉えるというスタンスを、早くから試みている脚本家だといえる。その意味において、性的少数者の精神的な負担を描いた本作『異人たち』は、意外なかたちで山田太一の別の面に接する作品となっていて、感慨深いところがある。

大林宣彦監督は、『異人たちとの夏』(1988年)がTV放送されたとき、スタジオで映画評論家・水野晴郎の「なぜ、こういうテーマをお選びになったのですか」という質問に対し、「私たちは目を見開いて生きていますが、ひょいと目を閉じますと、(すぐ周囲に)死んでしまった懐かしい人たちがいるわけです」「映画というのは暗闇のなかで観る夢ですから、せめて映画のなかくらい目を閉じて、“懐かしい、会いたいな”という人たちに会ってもらえたら」と語っている。

『異人たちとの夏』や本作『異人たち』は、ゴーストストーリー、ある種の怪談として表現されているが、大林監督が言ったように、そんな幽霊という存在自体が、人間の願望が生みだすものだと解釈することも可能だ。そういう目で見れば本作のアダムの経験する怪異は、両親に本当の自分を知ってほしかったという思いや、納得して認めてほしかったという、強い願望の発露だったことが理解できる。多くの人にとって、周囲の理解や承認の欠如が強い心理的負担になるように、アダムもまた、その重圧に苦しんでいるのだ。そして、それはハリーも同様なのである。

ヘイ監督の過去作で、少年が馬とともに大地を孤独に進んでいく『荒野にて』は、一見すると本作とのかかわりが薄いように思えるが、ヘイ監督が若い時代にアダムの子ども時代のような孤独を抱えていたことを考えれば、『荒野にて』の少年の歩みと、荒涼とした景色が暗示していたものが、いまさらながら強く理解できるところがある。

本作で強く印象に残るのはラストシーンだ。アダムやハリーたちが、幻想的な映像とともに、それぞれ宇宙の無数の星の一つであることが、やや唐突にだが、示されるのである。これは、同じ思いを抱える孤独な人間が地球上に数多く存在し、それぞれが互いにつながりを求めていることを表現したものだと考えられる。

ヘイ監督は、山田太一が亡くなる前に、本作を病床で最後まで鑑賞したということを家族から伝えられたそうだ。その頃にはもうあまり言葉を発することができなくなっていたというが、山田太一のこれまでの足跡を考えれば、おそらく彼がこのラストシーンに、自分のこれまでの仕事に重なるものを感じただろうことは、想像に難くない。

(文=小野寺系(k.onodera))

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