札幌五輪スキージャンプ“金メダリスト”笠谷幸生さん死去…享年80 「日の丸飛行隊」のエースとして日本中を熱狂させる 冬季五輪で日本人初の金メダル獲得の偉業

1972年の札幌冬季オリンピックスキージャンプで、金メダルを獲得し、日本中を沸かせた笠谷幸生さんが、4月23日亡くなりました。80歳でした。

札幌五輪翌年、1973年の大会時の笠谷さん

笠谷さんの足跡は、大倉山ジャンプ競技場にある、札幌オリンピックミュージアムにも…。

札幌オリンピックミュージアム 阿部雅司名誉館長
「こちらに展示してあるのが、笠谷幸生さんの試合のときに、金メダルを獲得したときに着用していたジャンプスーツ、ジャンプシューズ、そしてジャンプスキー。このとき“金・銀・銅”(メダル)だったから、お三方のスキーを展示している」

札幌五輪翌年、1973年の大会時の笠谷さん

笠谷幸生さんは北海道後志地方の仁木町出身です。

1972年の札幌オリンピックスキージャンプ70メートル級で、冬のオリンピックでは日本人初となる金メダルを獲得しました。

この競技では、日本選手が表彰台を独占し“日の丸飛行隊”と呼ばれました。

引退後は、日本代表のコーチや日本オリンピック委員会の理事も務めました。

1994年、リレハンメルオリンピックのノルディック複合団体・金メダリストの阿部雅司さんは、笠谷さんとの交流を振り返ります。

札幌オリンピックミュージアム 阿部雅司 名誉館長
「自分が現役のときは、やはりコーチとして、すごく厳しい感じに見えていたけれど、現役を引退してコーチになったら、大きく包み込んでくれるような(存在)」「冬のオリンピックを象徴的な存在だったので、亡くなられてショックでした」

笠谷さんの棺には、オーストリアでコーチ研修をしていたときの家族写真が入っていました。

研修から帰国後のインタビューがHBCに残っています。

1981年、取材時の笠谷さん

笠谷幸生さん(1981年取材)
「代々先輩から受け継いだものを、どんどん踏み台にして持っていくのが、スポーツでしょうから、そういった人たちの力を借りたり、われわれの同僚も、もっといい年齢になっていますし、そういった人たちの協力も得ているし、みんなで作って行こうってことじゃないか」

笠谷さんの偉業をたたえ、全日本スキー連盟は「現在の日本のジャンプ選手の快進撃の幕開けだった。笠谷さんのご功績は、日本スキー界の代えがたい宝であります」。

また、札幌市の秋元市長は「“日の丸飛行隊”の一員として金メダルを獲得され活躍された姿は、いまも多くの道民・市民の目に焼き付いていて、誇りです」とコメントしました。

5月には大倉山ジャンプ競技場で、お別れの会が行われる予定です。

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