『悪は存在しない』世界の裂け目に飛び込む映画

『悪は存在しない』あらすじ

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧とその娘・花の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

伝説的なオープニングショット、覚醒と浸食


『悪は存在しない』(23)を濱口竜介監督の最高傑作とすることに何一つ躊躇がない。これまでの濱口映画のエッセンスを多様に進化させつつ、ネクストレベルを見せてくれる。ほとんど事件のような映画、そして真に無国籍な映画だ。どこからどう見ても日本の風景が捉えられているにも関わらず、“日本映画”を見ているという感覚を不思議なくらいに感じることがない。本作は同時代性という意味において、ケリー・ライカート監督の『ファースト・カウ』(19)に描かれた土地の記憶や、セリーヌ・シアマ監督の『秘密の森の、その向こう』(21)に描かれた伝承・童話性といった、アメリカやフランスのインディペンデント映画の傑作と共振している。冬の森や野生の動物の存在が童話的なファンタジーを生んでいる。しかしこのファンタジーは極めて不穏だ。

森の中、木の枝から漏れる冬の光を見上げながら移動する長い長いオープニングショットが、オーディエンスに催眠術をかける。撮られた瞬間から伝説になることが約束されたこのトラッキングショットは、土地の精霊を召喚する儀式のようであり、オーディエンスを伝承や童話の世界へ誘う導線のようでもある。やがて冬の木漏れ日を見上げる視線が、一人の少女(西川玲)の視線だったことをオーディエンスが知るとき、幻想的な音楽は唐突に切断される。催眠から覚醒へ。映像と音楽の“断面”のようなものが浮き上がる。このときの少女に降り注ぐ雪が美しい。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

唐突な音楽の切断に続き、木材を切断するチェーンソーのノイズが聞こえてくるという“音による導線”。雪に覆われた森、謎の男と小屋。ホラー映画の象徴ともいえるチェーンソーや斧といった小道具が、不気味なものに触れるようなミステリアスな手触りをオーディエンスに与えていく。濱口竜介が語るように、本作で自称「便利屋」を名乗る巧を演じる大美賀均はカメラの前で得体の知れない怖さを放っている。

元々、石橋英子の音楽に映像を付けるために始まったこのプロジェクトは、濱口竜介と石橋英子のコラボレーションが、クレール・ドゥニ監督とティンダースティックスによる鉄壁のコラボレーションに匹敵することを見事に証明している。音楽は映像を補完するためにあるのではなく、覚醒させるためにある。あるいはゆっくりと映像に浸食させるためにある。覚醒と浸食。映像と音楽の断面から立ち上がるもの。この土地に流れるキレイな水のように、音楽はこの映画の生命と深く関わっている。ここには映画と音楽の刺激的な対話、相互作用がある。

世界の裂け目


『悪は存在しない』はまったく新しいタイプの濱口映画だが、これまでの濱口映画のエッセンスを進化させてもいる。この土地にグランピング場を作ろうとする芸能事務所による地元住民への説明会のシーン。ここでの議論は濱口映画の真骨頂だ。『PASSION』(08)以降、彼の映画を追いかけてきた者としては、「きたきた!」と“濱口タイム”の登場に嬉しくなる。

安っぽい企業PR映像を皮切りに、形ばかりの説明会を始める高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)。企業の杜撰な計画はすぐに明らかになり、ピリピリとした空気が渦巻く中、高橋の仮面は木っ端みじんに破壊されていく。このシーンでは地元民と企業側との間にある“裂け目”が露出されていく。『ドライブ・マイ・カー』(21)のオーディションシーンで、壁側へ女性を追い詰めていく高槻(岡田将生)の演技が、オーディション会場という空間に“裂け目”を切り開いたように、そこには“暴力”がある。しかし最初から喧嘩腰の青年を除き、ほとんどの住民は企業側との真摯な対話を望んでいる。そして説明会を任された二人もまた企業の犠牲者でもある。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

それぞれの話し手の言い回しや声のトーンもさることながら、地元住民の主張に動揺を隠せず、徐々に相手の話を聞くことを知っていく二人の変化も素晴らしい。そしてこのシーンで語られる議論は、あきらかに政治の話でもある。上流に住む者は下流に住むものに対して、その振る舞いに大きな責任がある。権力者の勝手な行動の責任を負わされるのは、いつも一般の市民だ。私たちの生きている世界とまったく同じことだ。

車という移動手段が亡き妻の声との“対話”の舞台になっていた『ドライブ・マイ・カー』に続き、本作の車は大きな演出装置になっている。車という親密な空間の中で、話すことによる“裂け目”が生まれる。その“裂け目”には様々なヴァリエーションがある。運転中の高橋が助手席に座る黛の前で声を荒げるのは暴力的な“裂け目”だ。しかし唐突な笑いや、話すことによる自分の発見という“裂け目”も同列で描かれている。高橋は薪割りに人生の喜びを覚える。薪を割るときの音の響き。そしてこの町に度々響く狩猟の銃声。本作における発声や音の響きによる世界の“裂け目”には、喪失と獲得が常に両義的に存在するといえる。聞く人によってそれはどちらの側にも転がっていく。もし「悪は存在しない」という言葉が成立するならば、世界のあらゆる“音”に悪は存在しない、ということなのかもしれない。

世界の法則を回復せよ


『悪は存在しない』の町は、夜になると何も見えないくらい真っ暗になる。夜が深い夜であること。筆者は小さい頃に生まれ育った田舎の夜の本当の暗さを思い出した。都市の夜はどこであろうと、とても明るいことを忘れていた。そしてこの映画の舞台となった長野県の町は深い霧につつまれることもある。ここには人間がコントロールできないような夜の“裂け目”がある。濱口竜介はこの“裂け目”に向かっていく。

自然の風景は常に動いているが、子どもたちの遊ぶ「だるまさんがころんだ」のように、その微妙な変化に気づけないことが多い。そして筆者も含め多くの人は忘れっぽい。寡黙で敬語を使わずにぶっきらぼうに話す巧が娘の迎えの時間をうっかり忘れてしまうは、彼のユーモラスな側面であり、人間の忘却を体現しているようでもある(巧はぶっきらぼうだが、決して礼儀を知らないような人間ではない。この土地のことを知りつくし、多くの住民からも頼りにされている)。それは子供の成長にも当てはまる話だ。娘の花役を演じる西川玲は、あきらかに子供だが、ふとした瞬間、横顔の表情が大人の女性のように見えるときがある。その瞬間にハッとさせられる。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

濱口竜介はこの土地の生活を必要以上に美化することはしていない。巧が説明会で述べたように、この土地に集まった者は元々全員が「よそもの」なのだ。ふと思う。アメリカの移民社会の縮図のようなことが、日本の各地でも起こってきたのだと。たとえ日本人同士であろうと、私たちの社会は「よそもの」の集まりだ。そこにそれほどの変わりはないのではないかと。

企業による都市生活者のためのグランピング建設計画では、不便さを感じずに自然を楽しむという身勝手な合理性が優先される。安全に過ごすために。恐怖を避けるために。『悪は存在しない』は、恐怖を避けるような合理性では到達できない、まったく説明のつかない地点に映画を転がせていく。世界の法則を回復するためには恐怖と共存せよとでも言わんばかりに。この映画を体験する者は、深く立ち込める霧の中、夜の“裂け目”に目掛けて飛び込んでいくことになる。そしてそこで目撃する光景に圧倒されることだろう。善悪の判断はまだそこにはない。『悪は存在しない』が飛び込んでいく場所は、恐怖が生まれる“裂け目”なのだ。とんでもない傑作の誕生だ。

文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

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『悪は存在しない』

4月26日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国順次公開

配給:Incline

©2023 NEOPA / Fictive

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