「港区の闇にのまれたのは…私」お金と野心に目がくらんだ女の後悔とは

前回:「チープな正義感は通用しない」28歳女が、友人のために経済界に顔が通じる大物を怒らせてしまい…

愛×雄大 ~大人たちの諦め~

宝と大輝を残してホテルを出た雄大が向かったのは、いつもの店、Sneetだった。店に入るなり店長に、愛さん結構なペースで飲まれてますけど…と心配されながら、個室に案内された。

常連の中でも限られた客にしか許されない、店の奥にある唯一の個室。ドアノブらしきものはついておらず、一見するとそこに部屋があることすらわからない。入口の開閉は隠された暗証番号ボタンによる自動ドアだ。

完全防音の個室。有名人や商談には最適だけれど、中で何が起きても外界にもれない空間の存在を悪用する輩もいる。だからSneetでは個室を貸すに値する客なのかを厳しく見極めている。

部屋の広さは、壁に沿って、コの字型に配置された革張りのソファーに7~8人が座れる程。雄大が中に入ると、入口の正面の位置に座っていた愛が白ワインのグラスを掲げて少しだけ微笑んだ。

「…雨、降ってきたんだ」

少し濡れた雄大の髪を見て言ったのだろう。雄大が青山のホテルを出てタクシーを捕まえた頃に振りだした雨は徐々に強くなり、西麻布に到着する頃には結構な本降りになった。

傘がなくても店の前にタクシーをつければ大丈夫だと、雄大は高をくくっていたのだが、Sneetの前の道路は狭い上に一方通行だ。丁度到着した時に店の前が混雑していて、少し離れた所で降りることになり、店に入るまでの数十秒の間に濡れてしまったのだが。

主に濡れたのはコートでそのコートは店に入った時に脱いで預けた。わずかに濡れた髪と顔は、店に入った瞬間タオルを借りて拭いていてそう目立たないはずだった。それに気が付いたということは。

― 酔えてないな。

元々愛は、酒を飲むとすぐに陽気になり、楽しい酔っぱらいになる。酒に弱くはないからその“愉快な酔っ払い状態”が長く続くタイプだ。その愛が、店長が言う“結構なペースで飲んでいる”のに酔っていないということで、愛の状態がわかる。

その状態に気づかないふりをして雄大は、ソファーテーブルの角をはさんで愛の斜め前に座った。すぐに雄大のいつもの酒、ラムのロックが運ばれてくる。

愛の前にはワインクーラーが置かれていて、中で冷やされているボトル、白ワインは半分程減っていた。既に3杯飲んでいるという愛のグラスに4杯目を注いだ店長が去っていくと、愛が言った。

「来てくれると思わなかったな」
「呼び出したのはそっちだろ」
「呼び出しても来ないことの方が多いくせに。特に今日は怒ってるでしょ」

今雄大が言いたいこと全部わかるよ、と愛が自虐的に笑った。そんな笑い方をするな。お前にはそんな笑い方は似合わないと眉間にシワを寄せながら、雄大がそんな自分の気持ちを…愛に対する想いを言葉にすることは、いつものように、ない。

「感情に流されて、宝ちゃんを連れて行ったジャッジが甘い、でしょ?あとは」
「…」
「携帯を持たせることにリスクを考えなかったのか。それに」
「…」
「あんな男を選んだんだから自業自得、だよね」
「……自覚してるなら進歩だな」

やだなんか優しいじゃん!雄大が優しいと怖い!とふざけた愛に、雄大の眉間のシワが深くなる。そんな顔しないでよ~とその肩を押した愛が、私さ、と続けた。

「宝ちゃんと初めて2人で飲んだ日にね。この辺りで生活始めると、闇にのまれちゃう女子もいるから気を付けてって…言ったんだけどさ」
「…」
「闇にのまれた女子が私だなんて、宝ちゃんは思ってもいないと思うけど。あーあ、あの頃の私ってひどかったよねぇ」
「…」
「お金と野心に目がくらんで、成り上がりたくて」
「今更過去に浸るな。無駄だ」

ぴしゃりと雄大に遮られた愛は、笑いながら溜息をついて脱力し、ソファーの背もたれに大きく体を預けて天井を仰いだ。しばらくの間どちらも言葉を発さず、雄大がグラスを回し、持ち上げるたび、その氷の音が響く。沈黙を破ったのは雄大だった。

「…タケルくんのことをあきらめろ」
「…は?」
「一緒に暮らすことを、もうあきらめた方がいい」
「……何言ってんの?…え?なんか作戦ってこと?取り戻すために、一旦あきらめるふりをするとか?そういうこと?」

戸惑い揺れる愛の問いに、雄大は冷めた表情のまま言った。

「今の愛じゃ、タケルくんを幸せにできない」

愛の目が見開かれ、怒りに顔が染まる。

「…そんなことない。そんなこと、あるわけない」

絞り出された声が、私はタケルを幸せにするために生きてるの、とヒステリックに悲痛に響き、雄大の胸の奥でジリっと何かが焦げて痛みが走る。それを無視して雄大は続けた。

「お前とタケルくんの関係がどんなに良好だったとしても、タケルくんが今一緒に暮らしているのは…少なくともあと5年は保護を受けなければならないのは父親だろう。そしてその父親は伝え方はともかく、最高の教育を与えようとしてるようには見えるけどな」
「雄大は知らないからよ。タケルがあの家でどんなに肩身が狭い思いをしているか。どんなにあの父親におびえているか」
「確かに知らないよ。でもそうだとしても、今すぐには救い出せない。それが現実だろ」
「…だから、せめて月一の面会だけは…でも海外に行かれちゃったら…」

愛がうつむき、その肩が震え出す。

― やめてくれ。

愛に泣かれるのは本当に困る。近づいてその肩を抱き寄せ、支えたくなる感情に名前をつけたくもない。ごまかすように雄大は言った。

「…今回のことでよくわかったろ?これ以上どうにもならないってことも、両親が争えば争うほど、タケルくんが板挟みで苦しむんだ、ってことも」

愛はうつむいたまま、答えない。雄大はラムを一口、口に含んだ。喉を焼くアルコールの力をかりて、続きを口にする。

「タケルくんが海外に行ったとしても、月一の面会は、オレが必ず死守してやる。会えなくなるなんてことには絶対にさせない」

愛が、顔を上げた。その目は、驚きで見開かれている。

「……雄大、どうしたの?」
「どうしたの、ってなにが」
「そんなこと雄大にできるわけないでしょ」
「やってみなきゃわからないだろ」
「ほら。ますます、らしくないよ。やってみなきゃわかんない、なんて。雄大の大好きな合理的ってやつじゃないじゃん。……宝ちゃんみたいだよ」

― 宝ちゃん、みたい…?

思いもよらなかった指摘に一気に気まずくむず痒くなった雄大は、慌てながらも平静を装って話を切り返した。

「まあとにかく、手を離すことも愛情なんじゃないかってオレは思っただけ。昔話にそういう話あったろ。どっちが本当の親かみたいなの確かめるやつで」

ああ確か、江戸時代の裁き的なお話だね…と、自分の環境に重ねたのか、愛がまた落ち込んでうつむく。しまったと思いながらも、うまくごまかせたようだと雄大はホッとした。

― 確かに、らしくない。どうしたオレ。

愛の面会のペースだけは守ってやりたい。その熱が、自分が否定した宝の幼い熱と同じものだとは断じて思わない。思いたくはないが。

― 影響を受けてる…のか?宝ちゃんの…?

思わず浮かんできた考えに戸惑い、慌てて打ち消すと雄大は、作戦を立てるための具体的な質問を愛に始めた。

宝×大輝 ~子どもたちの想い~

雄大さんが出て行き、ホテルの部屋には私と大輝くん2人だけになった。大輝くんが私の世話係を押し付けられたように思えて、なんとも申し訳なくなった。

「宝ちゃんの行動が無駄じゃなかったって、実証してみようか?…オレが、なんとかできるかも」

そう言ってどこかに電話をかけはじめた大輝くんのその相手は、お父さん?という言葉からわかった。

お久しぶりです、と続いた会話に大輝くんとお父さんは頻繁に会うことがないのかな?とか、お父さんに敬語なの?とか、聞いていると浮かんでくる疑問が気まずくて、私はトイレに行くふりをして席を外した。

大輝くんの声が続いているうちには戻れないなと、ふと覗いたバスルームにも大きな窓があり、思わず吸い寄せられる。

― 雨、降ってきた。

窓の下をのぞくと、傘を開き始める人達が小さく見えた。雄大さんが到着した頃はわずかに明るかったはずの空がすっかり暗くなっている。濡れたことでキラキラが増した夜景。その美しさを楽しめる心境では全くないけれど、私はバスタブに腰掛けて窓の外を眺めながら、大輝くんの電話が終わるのを待つことにした。

― そういえば、確か。

「オレ、養子なんだよ」

大輝くんはそう言っていた。ということは電話のお父さんは…などと思った時、宝ちゃん?と大きな声がした。返事をして大輝くんの所に戻ると電話は終わっていて、私はさっきの大輝くんの言葉への疑問を伝えた。

「実証する、ってどういう意味?」

実証するっていうと言いすぎかもしれないけど、と笑った大輝くんが、その前にと言った。

「宝ちゃんが愛さんの元旦那さんに何て言ったのか、その時の状況をもう少し詳しく聞かせてくれる?」

座ろう、とうながされるままに私はソファーの元の位置に戻り、大輝くんの質問に答える形で、今日の出来事を思い出せる限り話し続けた。

その間にも、もう少し飲む?とシャンパーニュを勧めてくれたり、それを断るとコーヒーは?と聞いて入れてくれたり、大輝くんの気遣いは止まらなくて、どんな育ち方をすればこんな男の子になるのだろうと私は恐縮してしまう。

大輝くんの質問が途切れた時、ふと目に入った時計は19時過ぎを示していて、私は長く話し込んでいたことに驚いた。大輝くんはしばらくの沈黙の後で言った。

「タケルくん、すごくビックリしただろうな」
「…」

― タケルくん…。

涙を精一杯こらえようとしていた小さな体。あの部屋から出ていく愛さんと私を、ドアが閉まるまで見送っていたタケルくんの、あの、何とも言えない表情。それらがまた脳裏に浮かんで改めていたたまれない気持ちになっていると、あ、違うよ、と言われて顔を上げる。

「ビックリしたって悪い意味じゃなくて。いい意味での驚きだったと思うんだ」

大輝くんは続けた。

「愛さんも含めて、誰も歯向かえない恐ろしい父親に、面と向かって意見する人を見たの、初めてだったんじゃないかな。しかも自分のため…タケルくんのために怒ってくれてる大人を見るって、タケルくんにとってすごく意味のあることだったんじゃないかって。しかも見ず知らずの人がだよ」
「…でも、私が口出すことじゃなかった」
「そうでもないと思うよ」

大輝くんは、何といえばいいのかな、と独り言のように悩んだ後、すごく極端な言い方をすると、と会話に戻った。

「タケルくんにとっては、愛さんもあの父親と同じというか。自分の気持ちを押し付けてくる大人の1人なんじゃないかなって思うんだよね」
「…え?」
「父親と変わらないっていうのは言い過ぎだけど、タケルくんの本当の気持ちを愛さんも理解してない気がする。愛さんが思ってる程タケルくんは父親のことが嫌いかな?タケルくんにとってはどんなお父さんなんだろうね」
「……愛さんのことを、もう母親じゃないとから切り捨てろとか言う人だよ?最低な父親に決まってる。それにウソだとしても…」

愛さんが不倫してたとか子どもの前で…と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。不倫の恋の最中にいる大輝くんに言うことじゃない気がして。大輝くんはそんな私に気が付いた様子はなく、宝ちゃんの怒りを蘇らせちゃってごめん、と笑って、でもね、と言った。

「確かにオレたちから見たら最低な人で、最低な父親だろうね。でもオレたちじゃなくて、愛さんから見た彼でもなくて、タケルくんにとってはどうなんだろ、って話なんだよ」
「…どうなんだろうって?」
「タケルくんにとっても最低な父親なのかは、タケルくんにしかわからないと思う。愛さんと一緒に暮らしたいっていうタケルくんの気持ちは本物だと思うよ。でもそれは、愛さんを選ぶから父親は切り捨てたい、っていう単純なことじゃない気がする。

子どもって大人が思うよりずっと、親に気をつかってるものだからさ。愛さんも、自分がタケルくんと一緒に住みたい気持ちに囚われすぎて、きちんとタケルくんの気持ちを聞き出せてるのかなって疑問が残るんだよなぁ」
「…ごめん大輝くん、ちょっと意味がわからない」

大輝くんの言い方では、タケルくんが愛さんに気を使って、愛さんと一緒に住みたいと言っているように聞こえる。納得のいかない気持ちが顔にも出たようで、そんな私を大輝くんが笑った。

「もちろんオレらは100%愛さんの味方なわけだけど…でもさ。愛さんには悪いけど、愛さんの主張するタケルくんの思いって、本当にタケルくんの思いかな。愛さん自身の憎しみとかそういうのが走りすぎちゃって、父親を悪役にしすぎてる気もするし。

…で、ここで宝ちゃんに話を戻すと」

なぜそこで私に戻るの?と返す間もなく大輝くんは続けた。

「誰も逆らえない絶対君主である恐ろしい父親に、自分のために歯向かってくれた見知らぬお姉さん」
「…え?」
「愛さんでさえ…自分の母親でさえ我慢を強いられている相手に、宝ちゃんが噛みついたわけでしょ。タケルくんはきっと今まで大人たちに主張しても無駄だとあきらめてきたと思うんだよね。それを、きちんと聞いてあげて!と怒ってくれたお姉さんがいたんだから」
「…」
「オレがタケルくんだったら、絶対宝ちゃんに興味がわいて、もう一回会いたいと思うだろうな」
「…大輝くん、また意味がわからないけど」
「つまり、タケルくんに会いに行ってみようよ、っていう提案なんだけど。どう?」

どう?ってさわやかにほほ笑まれても、全く意味が分からないけれど、とにかくこれ以上余計なことをして、愛さんの願いや事態を更にこじらせることは絶対に避けたい。そう伝えた私に大輝くんは、あ、大丈夫だよ、と言った。

「愛さんと元旦那さんの争いに参戦するわけじゃないから。タケルくんに会う“だけ”だから。オレはどちらかというと、愛さんより、タケルくんを助けたい…というとおこがましいんだけど、少しでも楽にしてあげられたらいいなって」

なにが“だけ”なのか。タケルくんを助けるとはどういうことなのか。突拍子もなさすぎる文脈に返す質問が思い浮かばずにいる間に、私のお腹がぐぅ、と鳴り、こんな状況でもお腹がすくのかと恥ずかしくなった。

「冷蔵庫に誕生日ケーキがあるよ」

そう言って立ち上がった大輝くんが運んできてくれたのは、パリの旅行中、アパルトマンで撮った写真がプリントされた、かわいらしいイチゴのホールケーキだった。

愛さん、雄大さん、大輝くん、私、4人の写真。タイマーで撮ろうとして何度か失敗したことで、結果的にみんなが爆笑し(なんと雄大さんも)愛さんのお気に入りになった写真だ。

≪HAPPY BD TAKARA! 出会えてうれしいよ♡28歳も4人で沢山遊ぼうね!≫

「ケーキを選んだのはオレだけど、メッセージは愛さんのご指定だよ」

大輝くんはそう言って、細いキャンドルの束を取り出した。一応28本準備したけど全部刺したい?と笑った大輝くんに私も笑って、首を横にふる。

じゃあ4人でのお祝いってことで…とキャンドルを4本刺して火をつけた後、大輝くんは部屋の明かりを落としてくれた。わずかな間接照明だけが残った暗がりの中で、細いキャンドルの光がぼうっと浮かんで揺れる。

「誕生日おめでとう、宝ちゃん」
「…ありがとう」
「愛さんと雄大さんの分も、おめでと」

そう言ってハグしてくれた大輝くんに、メイク・ア・ウイッシュを、と急かされた。

「愛さんのこと願うんじゃなくて、ちゃんと自分のことにしなよ」

心を見透かされるような言葉だったけど、そんなの無理に決まっている。私はケーキの写真、愛さんの笑顔を見つめてから、目を閉じると願った。

愛さん、傷つけてしまって本当にごめんなさい。…愛さんの願いが叶いますように。タケルくんの願いが叶いますように。2人にこれ以上辛いことがおこりませんように。

そして、2人が一緒に、幸せに暮らせますように。

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▶1話目はこちら:27歳の総合職女子。武蔵小金井から、港区西麻布に引っ越した理由とは…

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大輝の父と宝が対面。そして大輝の父の口から語られる…なぜ大輝が、タケルを助けたいのか。

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