ドラ1入団も…突然の戦力外「給料いらないからもう1年」 苦悩の1か月で決めた電撃引退

西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】

6年間で4度6か所を手術した高木大成氏は2005年に戦力外通告を受けた

桐蔭学園、慶大を経て西武を逆指名しドラフト1位で入団。野球界の“エリート街道”を歩んできた高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)は、10年間のプロ生活で4度、計6か所の手術を受けるなど怪我との闘いでもあった。復活を期す中で、2005年オフに突然の戦力外通告。他球団での現役挑戦か引退か――。苦悩の1か月と球団職員の道を選択した思いを語った。

1年目の1996年から着実に成績を残してきたが、1998年オフに右肘の遊離軟骨除去手術を受けると、そこからは怪我の連続。2003年までの6年間で4度、6か所にメスを入れた。同年オフの手術の影響で、2004年は出場なし。10年目の2005年を13試合出場で終えると、シーズン終了後に電話が鳴った。

「その瞬間に戦力外だと分かりました。秋季キャンプが始まる前々日の10月7日でした。どんな言葉を言われたか、よく覚えていないんです。自分がどう返事したかも」

球団からは引退して指導者やスカウト、球団職員といった第2の人生の選択肢を提案されたが、即答できなかった。「最後の手術から少しずつ回復している感じはあった。あと1年あればもっとよくなるのにな、という思いはあった」。

返答は保留したが、いっこうに心は決まらない。「給料いらないからもう1年やらせて、という心境でした。当時はトライアウトもないし、今のような育成制度もない。引退か他球団のテストを受けるか、で悩みました」。

いてもたってもいられず入団当時の監督だった東尾修氏に電話した。素直な胸中を打ち明けると「ちょっと来い」。その日のうちに呼び出された。引退すれば球団に残れる選択肢があることも伝えると「それだったら、そっちの道もいいんじゃないか」。恩師に背中を押された。

選んだ球団職員の道「スターがいて強かったのに、観客は減っていた

現役への強いこだわりは残っていたが、最終的に球団職員の道を選んだ。チームと密接に関わる“現場組”ではなく“ネクタイ組”を選択したのは「その年の12月で32歳になったのですが、サラリーマンをやるにはギリギリかなと。なかなかできることではないので」。悩み抜いた末、戦力外通告から1か月後の決断だった。

「私が所属した10年間で1度もBクラスはなかったんです。その間に松井稼頭央(現西武監督)、松坂大輔といった球界を代表するスターがいて強かったのに、観客は減っていた。私自身、何でだろうと感じていた。そういうところに携われるのはいいチャンスかなと思った。球団と選手をつなぐ人間がいてもいいなと」

現在は中継の放映権に関わる業務に携わっている。これまでイベントプロモーション、ウェブ関係、事業広報、営業、プリンスホテルなど様々な角度からチームのために尽力してきた。

入団までの素晴らしい球歴から「レオの貴公子」「レオのプリンス」の異名で大きな期待を背負ったが、10年間の現役生活でレギュラーとして成績を残せたのは1997-1999年の3年間だけだったといってもいい。それゆえにインパクトのある愛称は“重荷”になっていなかったのか――。

「確かに私は1軍選手にはなれましたが、スーパースターにはなれませんでした。でも自分が付けた呼び名ではないので『すみません。私でいいんですか?』と思いながらプレーしていました(笑)」

通算成績は720試合で打率.263、599安打、56本塁打319打点、67盗塁。「選手としては悔いはありません。4度も手術して頑張ったけど、これ以上できなかった。終わり方はあと1年という気持ちはあったけど、自分の体が弱いだけですから。でも、もしやり直せるなら、怪我する前に戻りたいかな。この先、野球に携わることはまだまだやめられないですよ」。50歳になった貴公子は、柔和な笑みを浮かべた。(湯浅大 / Dai Yuasa)

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