「近鉄の岩隈久志は今日で最後ですから」オフの日米野球で意地の好投【平成球界裏面史】

日米野球で好投しお立ち台に立つ岩隈久志(2004年11月)

【平成球界裏面史 近鉄編50】堀越学園高から近鉄に入団し3年目の平成15年(2003年)、岩隈久志はそのポテンシャルを開花させることになる。チーム最多の15勝を挙げ、最多完投、最多無四球を記録するなど頭角を現し、パ・リーグを代表する投手に成長した。

近鉄が消滅することになる平成16年(2004年)は自身初の開幕投手を経験。球団新記録となる開幕12連勝という活躍ぶりで、合併問題に揺れるチームに明るい話題を持ち込んだ。最終的に15勝2敗で最多勝、最高勝率のタイトルを獲得した。

04年は球宴ファン投票1位でパ・リーグ先発投手に選出され、第1戦で先発。アテネ五輪にもチームメートの中村紀洋とともに選手され、日本の銅メダル獲得にも貢献した。オフとなった11月10日には日米野球の第5戦(大阪ドーム)に先発して7回1失点で白星。ここまで4連敗で迎えていたが、3―1で大リーグ選抜を相手に勝利を呼び込んだ。

左から松坂大輔、安藤優也、和田毅、上原浩治、岩隈久志、小林雅英(2004年8月)

消滅する近鉄への思いを込めて〝最後のユニホーム〟をまとった。エキシビションマッチとは思っていなかった。大阪ドームに集まった近鉄ファンに最後の近鉄バファローズの開幕投手として、意地でも好投を披露しようと意気込んでいた。

「近鉄の岩隈は今日で最後ですから。もう、全力で投げようと決めていました。今まで応援し続けてきてくれた近鉄ファンの皆さんに恥ずかしくない投球ができてよかった」

メジャーのオールスターを相手に6回まで1安打投球。7回にア・リーグ盗塁王のクロフォード(デビルレイズ)の快足にかきまわされ、自らの暴投で1点は失った。ただ、慣れ親しんだユニホームでの本当の本拠地最終戦で、最高の投球を見せたことは間違いないだろう。

相手先発はこの時点で328勝を挙げていたロジャー・クレメンス(アストロズ)だった。歴代最多のサイ・ヤング賞7度受賞を誇り「ロケット」の異名を取る右腕を相手に投げ勝った。

ただ、実際は日米野球どころではなかったはずだ。近鉄が消滅し、まさに合併球団のオリックスバファローズと、東北楽天ゴールデンイーグルスにメンバーがバラバラになるタイミングだった。実際、11月11日は仙台で楽天の結団式が行われた。日米野球に参加しながら、モヤモヤを抱えながらの日々に睡眠もままならなかった。

それでも「マウンドでは余計なことは考えなかったです。自分も野球を楽しめたし、ファンの皆さんにも楽んでもらえたと思います。これからも野球を楽しみたいし。近鉄の先輩たちとプレーしたような楽しい野球を見せていきたいです」と前を向いた。大阪ドームでの最後のヒーローインタビューに地元ファンが大喝采で応えてくれた。

当時の近鉄関係者にとって、この時期のゴタゴタは遠い記憶として薄れていっていることも多い。こんな時期の日米野球に近鉄の選手が参加していたこと自体、記憶から消えているファンもいるかもしれない。近鉄担当記者のほとんどは日米野球よりも合併問題の取材に走る中、岩隈の活躍をみんなで喜んだことは忘れられない。

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