タイガー・ジェット・シンを真似る輪島大士 引退後もプロレスの悪口は決して言わなかった

ゴルフクラブでタイガー・ジェット・シンのまねをする輪島(1987年8月、千葉・山田町の千葉スプリングスCC)

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大相撲第54代横綱、輪島がそう表明してプロレス入りしたのは、今から38年前の1986年(昭和61年)4月13日。全日本プロレスのジャイアント馬場会長が同席して、永田町のキャピトル東急ホテルで入団発表を行った。

すぐさま馬場とともに米国遠征に出発し、修行を積んだ輪島大士は同年8月7日に米カンザス州カンザスシティ・メモリアルホールでプロレスデビューを果たした。馬場とのタッグでJR・ホッグ&アースクェイク・フェリス組に快勝した。

全米各地で7戦こなした後、石川・七尾総合市民体育館で〝狂虎〟タイガー・ジェット・シンを相手に国内デビュー戦。試合時間は短かったものの、ケレン味ないファイトはプロレスファンに好感を与えた。

海外デビューから1年を迎えようとしていた翌87年8月6日、輪島は千葉・山田町の千葉スプリングス・カントリー倶楽部にいた。輪島は馬場とともに「Qtaiクイーンズ・ゴルフカップ」のプロアマトーナメントに出場していた。小田美岐プロとパーティーを組み、結果は31位。バーディーとパーを1つ記録してスコアは馬場を上回った。

カメラを向ける報道陣に、シンがサーベルをくわえるポーズをまねて、クラブを口にくわえるサービスショットを披露した(写真)。馬場から〝ゴルフ解禁〟を許された輪島は〝生きいき〟していた。

〝本業〟のプロレスでは天龍源一郎から容赦ない攻めを受け苦悶する輪島だったが…。

翌88年初頭、1月2日の後楽園大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦した輪島はなすすべなくエルボードロップ3発を食らう。レフェリーのジョー樋口をタックルで吹っ飛ばしたブッチャーは4発目を敢行。テレビ解説の馬場は「手も足も出ないってのは、このことですね」と厳しいコメントを発した。輪島は精彩を欠いていった。

そんな輪島の引退が報じられたのは東スポ88年12月28日付紙面。26日に米国から帰国した馬場の口から明かされた。

「世界最強タッグの最終戦(12月16日、日本武道館)が終わった後、輪島と石川(敬士)が連れ立って〝正式に引退したい〟と言ってきた。本人たちが辞めると言ってきたので…。本人たちにリングに上がろうという気力が消えてしまったのだから、どうしようもないかもしれない」と打ち明け、翌27日に本人たち不在のまま馬場が会見で2人の引退を発表した。

輪島のプロレス生活はわずか2年8か月で終止符を打った。

思い返すと、輪島のプロレス入りは86年4月8日付、日刊スポーツの紙面で明らかになった。1~3面ぶち抜きで「輪島プロレス入り!今週中に発表、今月米国修行=馬場の全日本、12月デビューへ」と衝撃的なスクープ記事だった。

東スポ(専門誌も)は寝耳に水で、上層部の会議で担当記者は〝世紀の大誤報です〟と否定したという笑えない話もある。

元日刊スポーツX氏は「芸能界に顔の通じてる記者が社内にいた。輪島さんって芸能人との付き合いもあったので。某芸能プロダクションがネタ元」と回想する。

ところで、引退した輪島と再会したのは9年後の97年(平成9年)12月16日、千葉・丸の内倶楽部で開催されたゴルフのジャンボ軍団恒例の忘年会・尾崎将司主催の「ジャンボインビテーショナル」だった。

特に親しかったわけではないが、にこやかに歓迎してくれた。しかし、シンが「よろしく」と言ってた旨を伝えると、「何がよろしくだ。もうあいつとは関係ない」。そう吐き捨て去って行った。

シンから伝言を授かったのは、この日から2年前の95年12月8日、IWAジャパン大阪府立の第2競技場大会。控室を訪ねた私に、「輪島はどうしてる? 会ったらよろしく伝えてくれ」。そう頼まれていた。

輪島がプロレスから距離を置いているのを、ひしひしと感じる出来事だった。

さて、2006年(平成18年)12月25日、赤坂プリンスホテルで行われた「2006年度プロレス大賞」表彰式で坂口征二や永源遙らと談笑する輪島がいた。

年月がたち、輪島の中でなにかが吹っ切れたのだろうか。

プロレスライターの小佐野景浩さんは、「輪島さんの素晴らしいところは、プロレスの悪口を一切言わなかった。まぁ、プロレスを辞めるときはいろいろあったと思うんだけど…」と明かす。

「08年にロングインタビューをしたとき、輪島さんは『初めはプロレスをショー的なものだと思っていたけども、いざ、自分がやってみたら、プロレスはそんなもんじゃないなと。それを私はヒシヒシと感じましたね』と言っていましたね。亡くなる前に話を聞けてよかったですよ」(小佐野さん)

人間・輪島は良くも悪くも記憶に残る好人物だった(敬称略)。

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