松田聖子の挑戦【80年代アイドルの90年代サバイバル】今なおトップシンガーであり続ける理由  トップシンガーであり続けた松田聖子の90年代

リレー連載【80年代アイドルの90年代サバイバル】vol.10 - 松田聖子

ポップシンガーとしてさらなる円熟へと向かっていった松田聖子の90年代

松田聖子の90年代は、80年代のスーパーアイドル時代に比べて、やや迷走していたようにも見えるし、新たな展開を模索していた時期にも思える。だが、音楽性を含め、彼女がアイドルでありつつポップシンガーとしてさらなる円熟へと向かっていった、そんな試行錯誤が垣間見える時代でもあった。

松田聖子は1989年6月に、デビュー以来所属してきたサンミュージックから独立し、個人事務所を設立。この直後の90年に発表されたアルバム『Seiko』が、最初の大きな分岐点となった。そう、Seiko名義でのワールドデビューアルバムである。全編英語詞のアルバムは、フィル・ラモーンのプロデュースによる85年の『SOUND OF MY HEART』があるが、こちらは日本発売のみであったため、本作が本格的な海外進出の第1作となる。

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックがコーラス参加したり、グロリア・エステファンがソングライティングを手がけるなど、かなり海外仕様を意識した内容で、ジャケットもマドンナをトレースしたかのようなビジュアル。ロングのカーリーヘアは、90年代前半の松田聖子のビジュアルイメージとなった。

ジェフ・ニコルスとのデュエットが収録されれた「We Are Love」

続く『We Are Love』では、全曲の作詞に挑んでいる。アレンジは全て笹路正徳。作曲には羽田一郎、尾崎昌也、上田知華、原田真二といった面々で、そこに松本隆や大村雅朗の名はない。そしてタイトル曲と「Kiss Me Please」では、当時、恋の噂で世間を騒がせていた「ジェフ君」ことジェフ・ニコルスとのデュエットが収録されている。

91年5月の『Eternal』は、洋楽カバーのバラード集。しかも全米デビューのためアメリカに滞在していた時期、本人が聞いた現地のヒット曲からチョイスされた、ほぼリアルタイムの作品群である。バングルス「エターナル・フレーム」(邦題は「胸いっぱいの愛」)、ウィルソン・フィリップスの全米NO.1ソング「Hold On」、マドンナの「クレイジー・フォー・ユー」などが選ばれ、2曲を除き聖子自身による日本語詞で歌われている。

セルフプロデュースへと舵を切った「Nouvelle Vague」

そして、92年の『Nouvelle Vague』は、全曲が聖子の作詞、作曲も全て聖子と小倉良の共作、全アレンジは鳥山雄司と、セルフプロデュースへと舵を切った。この曲に収録された「I Want You So Bad!」は、聖子流セクシー路線の最初の楽曲で、この時のPVの際どさはなかなかのもの。このアルバムには、初のセルフプロデュースシングルとなった「きっと、また逢える…」も収録されている。

「抱いて…」や「SWEET MEMORIES」を収録したバラード集『SWEET MEMORIES ’93』を挟んでの93年作『DIAMOND EXPRESS』では、ジャネット・ジャクソン風のビジュアルに変貌、トランスミュージックなどを取り入れる一方で、ヒット曲「大切なあなた」を収録。この作品で、90年代松田聖子の世界観が、完全に確立された。

アメリカで活躍していた女性シンガーたちを自身の作品に反映

こうして90年代前半の聖子作品を順番に見ていくと、トップアイドルとして活躍してきた80年代の楽曲とは明確に異なる世界を開拓してきたことがわかる。重要なのは下記の4点。

▶︎ 英語詞による、洋楽仕様の楽曲
▶︎ 本格的なバラード作品への挑戦
▶︎ 自身の作詞・作曲(小倉良との共作曲)
▶︎ セクシー系のビジュアルと、それに即した楽曲の発表

ここで松田聖子がお手本としたのは洋楽、ことにこの時代アメリカで活躍していた女性シンガーたちだ。マドンナ、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストンなどのビジュアル面やサウンドを取り入れながら、自身の作品に反映していこうという意識が見られる。91年の『Eteanal』で同時代の洋楽カバー、しかもバラードばかりを集めたのは、一度こういう曲を自分の中に取り入れる必要があったからだろう。

セクシー路線の楽曲に関しては、外国の女性ポップシンガーではごく当たり前の音楽表現である。これは近年のK-POPに至るまで変わらない。ただ、日本の土壌では、アイドルシンガーがセクシー路線に転向した場合、もう後戻りできないのが通例で、“多彩な表現の1つ” として、セクシー路線をやるというのが日本ではなかなか通用しない。敢えてそこに挑んだ松田聖子の “本気" が感じられる。95年のライブビデオ「LIVE It's Style '95」のジャケットではポールダンス姿を披露しており、実際にこの年のライブでも披露されているが、その後の浜崎あゆみや倖田來未のライブステージに先駆けたものであった。

自身の活動、思考は全て自己表現に繋がる

また、ジェフ・ニコルスとのデュエットなど、スキャンダルを逆手にとって突き進む姿は、アイドル時代からのファンを引かせたとおぼしいが、2000年には郷ひろみとのデュエット「True Love Story / さよならのKISSを忘れない」を発表し、この路線でも本気だったことを世間に納得させてしまったのである。それもまた “松田聖子の現在地” を聴き手に見せていく方法なのだろう。

自身の活動、思考は全て自己表現に繋がる。これが、松田聖子が90年代に目指したことだろう。自作曲については従来のファンからも賛否両論があったが、それでも「きっと、また逢える…」のようなバラード曲、あるいは93年の「大切なあなた」、94年の「輝いた季節へ旅立とう」のように従来の聖子流ポップナンバーでヒットを飛ばしている。この点については、作曲面での共作者・小倉良の功績もかなり大きい。

歌詞面での、ひねりのないストレートな感情表現については、ディテールに凝り、季節感を織り込んだ描写の中に女性の複雑な感情を落とし込む松本隆の作風に慣れていたリスナーを戸惑わせたが、実のところこの聖子独特の作詞表現は、“洋楽の訳詞” 的なものに近い作風だと考えると腑に落ちる。

松田聖子最大のヒット曲となった「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」

ここで1つ重要な点は、「きっと、また逢える…」のような純正バラード曲だ。日本のポップスではアイドルがこういう曲を歌っても、広く大衆に受け入れられることは少ない。ビートもグルーヴ感もない、シンガーの歌唱表現だけで勝負する、いわゆるポピュラースタンダードのような楽曲は、日本人向けではないのである。アメリカでももちろん主流ではなかったが、その流れが変わったのは、1985年、ホイットニー・ヒューストンが発表した「すべてをあなたに」(Saving All My Love for You)の大ヒットだろう。ホイットニーは92年にも自身の主演映画『ボディーガード』の主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」(I Will Always Love You)を再び大ヒットさせ、バラディアーとしての魅力を全開させている。

こういった楽曲が日本の音楽シーンに取り入れられはじめたのは、90年代終盤のディーヴァブームからで、特に小柳ゆきやMISIAの活躍によって日本のシーンに受け入れられるようになった。だが、実のところこのラインでの最初の成功作こそ、松田聖子が96年に発表したメガヒット作「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」だった。

この曲は、ミリオンヒットを記録し、現在に至るまで松田聖子最大のヒット曲となり、彼女の代表曲として今も多くのファンに愛されている。90年代前半の幾多の挑戦は、この曲によって実を結んだのだ。

「永遠の少女」で一区切りした松田聖子90年代の挑戦

松田聖子が海外進出を本気で考えていたのは間違いないが、それ以上に、90年代の彼女はアメリカ人ポップシンガーのようなスタイルでの音楽活動を望んでいたのではないか。例えば、マドンナやホイットニー・ヒューストンのような。それは、シンガーソングライターではない彼女が、音楽を通して自己表現をしていく過程で、90年代の様々な挑戦は必須のものであったのだ。

90年代の最後、1999年に発表したアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を手掛けた。作曲も聖子自身ではなく他の作家に委ねており、90年代の松田聖子の挑戦は、ここで一区切りとなる。2000年代以降はまた新たな展開が広がっていくが、現在まで彼女がトップシンガーであり続けているのには、90年代の果敢な挑戦がベースにあったのだと思わざるを得ない。

カタリベ: 馬飼野元宏

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