徳永ゆうきさん 人生を変えた大川栄策の「はぐれ舟」…NHKのど自慢でグランドチャンピオンになったのがすべて

徳永ゆうきさん(C)日刊ゲンダイ

【私の人生を変えた一曲】

徳永ゆうきさん(歌手・29歳)

演歌の世界で活躍する一方で、朝ドラ、バラエティー出演でも話題を集め、撮り鉄としても知られる徳永ゆうきさん。先月には大阪の地元のカラオケ喫茶で知り合った女性と結婚したことも明らかになった。今後も幅広い活動が期待されているが、歌手になったのは演歌好きな家族の存在と大川栄策が歌う「はぐれ舟」なしに語ることができない。

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両親も祖父母も鹿児島の奄美出身です。歌が好きな土地柄ということもありますが、家中みんな歌好き、演歌好きという環境で育ちました。祖父は一日中カセットテープをかけて歌を聴いたり歌ったり、父親は仕事をしながら鼻歌を歌い、母親も歌を口ずさみながら料理するような家でした。

僕はじいちゃん子だったので、一緒に見るテレビ番組が演歌の番組とかNHKの「歌謡コンサート」。物心がついて気がついたらずっと演歌を歌っていました。中学生になってじいちゃんに誘われてカラオケ喫茶に行くと演歌や昭和歌謡を歌い、年配の人に「ゆうき君、この歌も歌ってみたら」なんてリクエストされ、歌ったら褒められて。それが気持ちよかったですね。

歌ったのは千昌夫さんの「北国の春」とか橋幸夫さんの「潮来笠」、霧島昇さんの「目ン無い千鳥」、岡晴夫さんの「憧れのハワイ航路」、奄美なので三沢あけみさんの「島のブルース」、それから大川栄策さんの歌とかが多かったかな。

その頃はAKB48さん、GReeeeNさん、嵐さんとかが全盛です。はやっていたのは僕は聴いたことがない楽曲ばかりでした。友だちとよくカラオケに行ったけど、演歌や歌謡曲を歌っているとシカトされましたね(笑)。僕が演歌を歌っていると、みんなデンモクで歌う歌を探していて。「聴いてへんのやろな」とは思ったけど、僕は気にせず気持ちよく歌っていましたけどね。

スポーツなんかも興味があるのは友だちとは違ってましたね。友だちが野球とかサッカーの話で盛り上がっていると、僕が「昨日の上手投げすごかったな」なんて、相撲の話をするから「見てへん」「知らんし」って無視された(笑)。

そんな環境が一変するのが高校2年の時です。中学の同級生に「NHKのど自慢」に「一緒に出ないか」と誘われたんです。僕が歌うのは演歌や昭和歌謡だけど、彼はアニメソングが好きで、一緒にカラオケに行くと、演歌や昭和歌謡とアニソンを交互に、フリータイムが終わるまで70曲も80曲も歌うこともありました。

■鉄道が好きで工業高校を出て鉄道会社に就職すると決めていた

まずは大阪大会の予選です。2011年7月24日でした。僕は何を歌おうかと考え、前の年に発売された大川栄策さんの「はぐれ舟」を歌うことにしました。じいちゃんとNHKの番組を見ていて「この曲ええなあ」と話していたのが選んだ理由だったような気がします。結果は僕は受かったのに、彼は落ちてしまって。それで僕だけ翌日の日曜日の生放送に出演することになって、チャンピオンになりました。

もともと鉄道が好きで、工業高校に進学して鉄道会社に就職したいと思っていましたからね。「のど自慢」に出て予選を通っただけでもビックリ。チャンピオンになるなんて思ってもいなかったですよ。でも、友だちは予選で落ちたから喜ぶこともできないし、彼に「さすがやな」と言われた時は複雑な気持ちでしたね。

それから翌年の「チャンピオン大会」に出場。同じ「はぐれ舟」を歌って、グランドチャンピオンになることができました。それでも、僕の夢は鉄道関係の仕事に就くことだから、歌手になることは心の隅っこでちょこっと思い始めたくらいでしたけど。彼が「出よう」と言ってくれなかったら、今頃は間違いなく演歌歌手じゃなく、鉄道会社に就職して働いていたと思いますね。

あの頃のことを思えば、歌うのは「北国の春」でもよかったと思います。父親の十八番でよく聴いてましたから。でも、「はぐれ舟」を歌ってグランドチャンピオンになり、演歌歌手になれたので、結果的にこれでよかったのかなと思っています。今となっては「はぐれ舟」を歌って「のど自慢」に出たことがすべてですからね。

デビューしてから大川さんと番組でご一緒する機会がありました。それまでは大川さんを視聴者の側で見ていたので、夢みたいな瞬間でした。「徳永ゆうきです」と挨拶に伺ったら、「君が『はぐれ舟』を歌ってから、売り上げが伸びてね」と言われた時はうれしかったですね。

転機は水森英夫先生との出会い

デビューは13年。デビュー曲はBEGINの比嘉栄昇さんに手がけていただいた「さよならは涙に」、セカンドシングルはBOOMの宮沢和史さんに手がけていただいた「平成ドドンパ音頭」です。転機になったのは4枚目「函館慕情」、5枚目の「津軽の風」を作曲してくださった水森英夫先生との出会いですね。

それまでは歌詞や曲のことを深く考えたことがなかったんです。「はぐれ舟」で「のど自慢」に出た時もそうですが、あくまでも歌は一家だんらんで家族と楽しむものと考えていましたから。ここをこう歌いたいとか、歌わなあかんというのがなくて、自由に歌っていた。

■「こぶしが多すぎる」

レコーディングの前に水森先生のご自宅に伺って、歌手になってから、初めてレッスンを受けました。その時に先生に「こぶしが多すぎる」と言われた。こぶしは料理でいうと調味料の一つで、入れすぎると味が濃くなって、もういいとなる。薄すぎると物足りない。ちょうどよくないとおいしくいただくことができないんだよ。こぶしも同じで、入れすぎるとガヤガヤして聴いている人に歌が入ってこない。少なすぎると物足りない。入れすぎても少なすぎてもダメなので、事前に入れるところを決めておいた方がいいんじゃないか。そう指摘されました。「いいあんばいに聴く人に届けなさい」と……。

その時に初めて自分の歌い方を見つめ直すことができた気がします。こぶしの量をどういうバランスで入れていくか、改めて考えてみました。最近は演歌だけでなく、ポップスやフォークソングをカバーする機会も増えているし、それをどう歌うかも含めて考えるきっかけになりました。SNSでは「こぶしが気持ちいい」といったコメントもあったので、どんな歌でも日本人にはこぶしを心地よく感じるDNAがあるのかなと思います。こぶしは僕の武器です。先生が教えてくださったことに感謝しています。

歌手になってから先輩方にはいつもよくしてもらっています。小さい頃からずっと演歌を歌ってきて、デビューするまで、演歌界には怖い人が多いんかなとか、上下関係が厳しいんやろなと、勝手な先入観で思っていました。

でも、本当に気さくな方が多いんです。とくに市川由紀乃さん、天童よしみさん、川中美幸さんには親しくさせていただいていて、天童さんには「先輩」、川中さんには「師匠」と言われているんですよ(笑)。もちろん関西人のノリがあってのことで、「やめてください」と突っ込んでいますが。

天童さんとご一緒した時に番組で「なんで先輩って呼ぶんですか」と聞かれて、「徳永君は演歌も、私たちと歌うような古い歌もしっかり歌っているし、演歌以外の舞台やドラマ、ミュージカルとかいろいろチャレンジしている。その姿を見て、私も頑張らなあかんと思って」と話されていました。

朝ドラには「エール」と「カムカムエヴリバディ」の2つに出させていただきました。もともと緊張するタイプですが、朝ドラはちょっとヤバかったですね。ステージは仮に最悪の事態になっても自分がやればいい、巻き返せるかもしれないと思えるけど、映像作品はタイトなスケジュールの中でキャスト、スタッフが何十人、何百人と関わっているからミスしたらあかん。そう思うとガチガチになります。

デビュー当時から常に「演歌と若者の架け橋になりたい」と言っています。若い人が僕がきっかけで演歌を聴いてくれるようになったり、興味を持ってくれたらいいなと思っています。ポップスを歌うことも増えていることで、「年配の方とポップスの架け橋になっているよ」と言ってくださる方もいます。

みなさんに笑ってもらうのは嫌いじゃない

最近はバラエティーにも出させていただくことが多いです。その影響なのか、キャンペーンでショッピングセンターやレコード店を回った時に女子高生や男子高生がCD購入の列に並んでくれるんです。サインをしながら話を聞くと、人生で初めて買うCDが僕のCDだと言う。うれしいと思いながらも、「大丈夫ですか」なんて言っています(笑)。ありがたい話です。

これからはコメディーとか喜劇で、おふざけをやれる役もやってみたいですね。僕はコメディー顔だと思うし、みなさんに笑ってもらうのは嫌いじゃない。ぜひ、やってみたい。

鉄道関係ではデビュー10周年の昨年に一日駅長とか一日車掌を3週、立て続けにやらせていただきました。取材などで、歌手だけど10周年の目標として駅長、車掌をやってみたいと言い続けたら、本当に実現しました。最初はJR西日本の芸備線の備後庄原駅の駅長、次に南海電車の難波駅から車庫間の車掌、次に北海道新幹線の新函館北斗駅の一日駅長です。

それもこれも、大川さんの「はぐれ舟」を歌ったことがきっかけ、僕にとってのスタートです。

(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)

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