中日が逃した日本一、審判に困惑「なんで」 “阻止”された先制点…流れ変えた悲劇

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

1982年日本シリーズで起きた“石コロ事件”…田尾安志氏がアウトになった

元中日外野手の田尾安志氏(野球評論家)はプロ7年目の1982年、リーグ2位の打率.350をマークするなどリーグ優勝に大きく貢献した。2勝4敗で敗れたものの、西武との日本シリーズにも全試合に「1番・右翼」でスタメン出場し、23打数7安打の打率.304と気を吐いた。その日本シリーズでは、有名な“石コロ事件”の被害者の1人でもある。「ありましたねぇ。“えーっ”でしたねぇ。全くねぇ」と苦笑した。

それは2勝2敗で迎えた第5戦(1982年10月28日、西武球場)で起きた。0-0の3回2死二塁で中日・平野謙外野手の一塁線を抜ける打球を村田康一塁審がよけきれずに足に当てて、二塁手の前方付近へ跳ね返した。西武・山崎裕之内野手がすかさず処理して、三塁へ送球。三塁を回っていて戻り切れずにタッチアウトになったのが田尾氏だった。「抜けたと思って、二塁からホームへ楽勝だと思っていたのが急にバック、バックと言われて……」。

野手を通過したボールに審判が当たった時はボールインプレー。審判は石コロと同じということだが、中日サイドにしてみれば先制点を奪うはずが、一転してチェンジ。「あれは流れを変えましたよね」と田尾氏は言う。試合は中日が5回に大島康徳外野手のソロアーチで先制したが、その裏に追いつかれ、7回に勝ち越されて1-3で敗戦。王手をかけられて迎えた第6戦(10月30日、ナゴヤ球場)も落としてシリーズ敗退となった。

第4戦は結局、先制しながらの負けとはいえ、序盤の3回に“石コロ”のせいで中日が流れをつかめなかったのは事実。田尾氏も「何でよけられなかったかなぁって思いますね」と今でも悔しそうに話した。しかし、この時は思ってもいなかった。“石コロ”に当たる打球を放った平野氏は1987年オフに、びっくりのタッチアウトになった田尾氏は1985年のキャンプ前に、2人とも、シリーズの対戦相手だった西武へトレードになるなんて……。

常にこだわった安打数「打率のために休むのは嫌だった」

優勝した1982年シーズン以降、田尾氏のバットの勢いは止まらなくなった。プロ8年目の1983年は161安打、9年目の1984年は166安打で、いずれもリーグトップ。打率も8年目が.318(リーグ3位)で、9年目も.310(同10位)と3割超えを続けた。「打率を残すために休むのは嫌。ゲームに出るのが一番大事なことだったので、その中で目標にするなら安打数がいいと思って、こだわっていました」。まさに、その結果だった。

「1番を打っている時は1試合に2回出塁して、1回かえってくる。そういう気持ちでいました。3ゲームで4本はヒットを打ちたい。そういう意識でやっていました。最多安打を打つということは、ゲームに出るということ。ゲームに出るということはチームにとって必要な戦力ということなのでね。そっちの方が自分では大きなものだと思っていました。当時、最多安打はタイトルではなかったけど、自分のなかでは勲章でしたね」

8年目も9年目も全130試合に出場した。いずれの年もファン投票でオールスターゲームに選出された。9年目の1984年8月7日の大洋戦(横浜)では、通算1000安打も達成した。実力プラス人気も兼ね備えたドラゴンズの顔的な存在になっていた。だから、思うわけもなかった。まさか、この絶頂期のオフに中日を去ることになるとは……。田尾氏の野球人生は突然、転換期を迎えようとしていた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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