チャラ男がシリコンバレーで武者修行 米国経営者に「雇うべき」連絡しまくり…若社長のミラクル人生

現在の本人オフィシャル提供 経営者向けのM&A支援サービス企業を率いる大野駿介社長【写真:本人提供】

内定時代にアポなし東南アジア“金融情勢”調査も…下町酒場とアプリ制作会社の異色マッチングにも成功

テニサー出身のチャラ男が、無鉄砲にも米国留学。英語もままならないのに米国の経営者たちに「雇って」とメッセージを送りまくり、たどり着いたのは、ベンチャー隆盛のシリコンバレーだった。帰国後も豪快に就活。社会人になってからは金髪派手な容姿から一転、硬派なM&A(合併・買収)ビジネスの世界へ。32歳にして経営者向けのM&A支援サービス企業を率いる若社長がいる。勤め人時代に、創業者の高齢化に悩む下町居酒屋とスマホアプリ制作会社の異色マッチングで事業継承を成功させるなど、熱いハートの持ち主だ。そんなミラクル人生に迫った。(取材・文=吉原知也)

創業4年目を迎えた「株式会社日本提携支援」の社長を務める大野駿介さん。スーツにネクタイの立ち姿がりりしい。大学3年生の時の過去ショットを見せてもらうと、「豪快」の文字が入ったワンカップ酒を持ち、あか抜けまくった笑顔を浮かべている。現在は、社員を含めて従業員ら20人を束ねる“一国一城のあるじ”。そのギャップに驚きだ。

小中は野球部、高校はハンドボール部の体育会系に育った。明治大への入学で人生が加速する。「当初は早稲田を志望していたのですが、6学部全部ダメで……。1浪して早稲田を目指すか、ストレートで明治か、悩みましたが、『1浪して入るより充実して楽しみまくる大学生活を送ろう!』と決心したんです」。明大前の和泉キャンパスを初めて歩いた時、「めっちゃ自由じゃん」と直感。テニスサークルに入り、髪色は“まっきんきん”に。フルスロットルの学生生活がスタートした。

絵に描いたような弾けまくるキャンパスライフ。2年生の時に、自ら仲間とサークルを立ち上げた。春は花見、夏は海とBBQ、秋は紅葉、冬はスノボ。わいわいがやがや楽しく遊ぶ、王道を行った。

3年生になると、就活の時期に入っていく。周囲もそわそわし始めた。大野さんは1人だけ、突飛なことを考えていた。

「『MBE(マスター・ビジネス・イングリッシュ)』という語学留学のパンフレットの言葉に引きつけられたんです。父親からは大学入学時から留学を勧められていて、就活を始める際に、よしアメリカに行こうと決意を固めました」

そこには「自分を変えないとやばい」という強い危機感があった。周りの友達がぽかんとする中で、1年間の休学で米国に飛び立った。「ボストンとサンフランシスコどちらにしますかとなって、どこにあるかも分からずに、担当者から『フレンドリーな方はこっち』と聞いたサンフランシスコに決めました」。なかなかぶっ飛んでいる。

横断歩道の標識が理解できない、バーガーキングでの注文もままならない。そんな状況だったが、西海岸生活3か月目になって、友人から「無料でビールが飲めるイベントがあるみたいだから行こうよ」と誘われた。なんとそこは、米民泊仲介大手Airbnb(エアビーアンドビー)の本社だった。「世界観が変わるほどびっくりでした。ジーパン姿でMacBook片手にイノベーション。それが米国の経営者たちの姿でした。自分が世界のIT大手が集まるシリコンバレーにいるということを初めて認識したんです」。人生が一変した。

そこから仰天の行動力を示す。ビジネスとITの最先端を学ぼうと、「日本に進出すると英語のリリースの出た米企業のCEO(最高経営責任者)や幹部にフェイスブックやSNSのメッセージを送りまくったんです」。文言は大胆不敵で、「I’m Japanese super marketer. You should hire me(俺はスーパーマーケターだから、あなたは雇うべきだ)」というもの。当然、マーケットのマの字も分からない。それでもスカイプによる面接に進んだ企業もあり、今では日本でも名前を耳にするカスタマーサポート支援ツールを提供する会社は最終の社長面接を通った。ビザの関係で就労できなかったが、すさまじい成果だ。残りの留学期間は、ベンチャーキャピタルの投資会社とデザインコンサル会社でボランティアとして働き、生の英語とビジネス感覚を学んだ。「日本人や現地のビジネスパーソンとの人脈を築くことができたのも今につながっています」。

それに、ある経験が死生観につながっている。「あるパーティーの帰り道、夜に1人で歩いていたら、強盗被害に遭いました。顔面を殴られて10針縫うけがを負いました。いつ何が起きてもおかしくない。だからこそ思いっきり生きよう。より強く考えるようになりました」と語る。

日本に帰国後、「チャラ男がシリコンバレーに留学したら」というテーマで当時取材を受け、留学自体の勢いそのままに、東大のエンジニアと一緒に学生起業を目指して奔走した。しかし、資金の壁にぶつかり、頓挫。「自分の無力さに心に穴が空きました。でももうそんな嫌な思いをしたくない、と奮起しました」。インターンシップでウェブデザイナーの仕事に勤しみ、いよいよ就活本番。ここで、国内業界大手・日本M&Aセンターと出合う。企業の買収事業だけでなく、事業継承や財務知識といった「自分にないスキルを学べる」。興味が沸いていった。

ここで、大野さんはまさかの行動に打って出る。「就職前の最後の学生生活にバックパッカーをしたかったんです」。なんと内定後、社長に掛け合い、「東南アジアの金融情勢を実地調査します」とたんかを切り、実際に旅費を出してもらったのだ。「3か月で8か国・11都市を回りました。本当にアポなしで、『BANK(銀行)』の文字が目に入ったら飛び込んで、話を聞かせてくれと。学生からすると到底すぐには手に入らないお金を前借りしたのですが、入社後に働いてお返ししました」。本当にただ者ではない。

「自分に素直になって、何事も楽しむ」が大野駿介社長の信念だ【写真:ENCOUNT編集部】

下町居酒屋の事業継承に奔走 「地域活性化、地方創生につながると信じています」

成果主義の厳しい業界。いざ入社したが、苦労の連続だった。「実は内定者の間に簿記2級を取っておいてと言われていたのに不合格で人事にめちゃくちゃ怒られました(笑)。関西配属で1、2年目は成果ゼロのビリ。新人時代は飛び込み営業とテレアポで鍛えられました。2年目から先輩に付いて回り、でっち奉公でいろはを教わりました」。下積みの努力を重ね、証券会社への出向もあってスキルアップし、3年目にはM&Aの依頼数トップクラスの成績を勝ち取るようになった。

後継者不足の解消につながるとして近年注目されている「事業継承」に大きな意義を見いだしたのはこの頃。2019年、下町エリアの東京・小岩の居酒屋からの依頼だった。

70代の店主夫婦はなんとか屋号を継続したい。でも、誰かに任せられるか不安を抱えていた。大野さんは、飲食業経営に乗り出したい意向を持っていたスマホアプリ制作会社が適任だと判断。異業種のマッチングだが、丁寧な交渉・すり合わせを進めていった。「実はある飲食の大手グループも手を挙げていました。しかし、買収後に一部門に組み込まれて、店主側がやりたいことができない状況になることが予想されました。アプリ会社の社長は飲食店経営に夢を持っていました。『ちゃんとつないでくれる』。その確信を得たので、居酒屋店主にその熱意を伝えて、事業継承を取りまとめることができました」。アプリ会社が練っていたランチ営業などの強化経営策を実施。会計システムや公式サイト運営などのIT化も導入した。コロナ禍を乗り越え、現在は新規で2店舗を増やすことにも成功している。

勤め先の日本M&Aセンターはどんどん規模を拡大。次第に、「自分が会社を創っていく立場として、会社を牽引(けんいん)したい」と、心がうずき出した。入社6年で退社。21年3月に自らの会社をローンチした。

自身の会社は、M&Aの売り手と買い手の“相談窓口”から総合支援を担い、言わばプロデュースの役回りを持っている。M&Aは成立に数年単位の時間がかかり、売却したい側と買収したい側のミスマッチも課題としてある。「そもそも、どこの誰に相談したらいいのか分からない。困っている経営者さんはたくさんいます。『こんなはずじゃなかった』という情報ギャップも埋めたいです。そのためにM&Aに関する情報インフラを整備する目標があります」。旧知の東大エンジニアの協力を得て、専用の情報システムを制作しており、完成間近とのことだ。

母校・明大では昨年からキャリアデザイン講義の講師として招かれ、200人の学生を前に、就活や仕事をテーマに熱弁をふるっている。長野のペンション再生事業にも乗り出している。「自分に素直になって、何事も楽しむ」が原動力の若獅子はどんな未来を描いているのか。

「まず、事業継承は特に地方の中小企業にとっても大きな課題になっています。M&Aをうまく成功させれば、後継者問題を解決し、雇用が継続され、新たな事業が生まれ、引いては地域活性化、地方創生につながると信じています。必要で適切な情報を届けることの一助になれば。そのために『プラットフォームを作って、最適な人から、最適な時期に、最適な情報を届けられるように、Googleを超えるような情報インフラを作りたい!』。これが僕の夢です」。いい意味での大風呂敷。野心の有言実行が楽しみだ。吉原知也

© 株式会社Creative2