AIビジネスで日本が米中に勝てない理由 中国人連続起業家を阻んだ「前例と規制」

中国市場向けに日本の不動産を紹介するプラットフォーム「神居秒算」を2020年に12億円で売却し、薬局の人手不足を解決する人工知能(AI)ビジネスを立ち上げた上海出身の何書勉さん。2度の起業はいずれも軌道に乗ったが、AIを社会に導入する上で日本特有の課題を痛感したという。

薬剤師の作業負担をAIで軽減

何さんが経営するAIスタートアップ「NeoX」は、医療機関が出した処方箋をAIが読み取り、診療報酬明細を作成するコンピューター「レセコン」に自動入力するサービス「薬師丸賢太」を2021年にリリースした。開発開始から1年半は売り上げゼロだったが、2022年1月に医療業界向けシステム大手に技術提供したことで波に乗り、薬師丸賢太は現在までに調剤薬局約2700店舗に導入された。今期(2023年7月~2024年6月)の売上高は5億円に達する見込みだ。

「手入力だと5分かかる処方箋の入力が、薬師丸賢太を使えば10秒で済む。薬剤師の作業負担が減れば少ない人数でも店舗を運営しやすく、過疎地域の薬局にも喜ばれている」と何さんは話す。

インバウンド不動産事業、コロナ禍で売却

何さんは京都大学博士課程でAIによる物体認識技術を研究し、新卒で楽天に入社。2009年、31歳で同社初の外国人執行役員に抜擢された。以後IT企業のGREE(グリー)、不動産企業プロパティエージェントを経て、2017年に中国人向け不動産情報プラットフォーム「神居秒算」のサービスを立ち上げた。

神居秒算はAIと過去の取引情報などのビッグデータを活用し、賃貸に出したときの利回りなども含めた物件情報を提供。現地に出向かずとも必要な情報を全てオンラインで提供し、購入できる仕組みを作った。拡張現実(AR)を活用したスマホのアプリは、カメラを起動すると売りに出ている物件が表示されるため、旅行中でも物件を探せると話題になった。中国人による日本での「爆買い」を追い風に、神居秒算は日本で不動産購入を希望する中国人が最も使う不動産プラットフォームに成長した。

しかし2020年に入り新型コロナウイルスの流行が始まると、インバウンド消費はピタッと止まり神居秒算の先行きも不透明になった。何さんは、「自分は不動産業界の専門家でないし、事業を伸ばすためには大きな企業に売却した方がいい」と不動産テックのGA technologies(GAテクノロジーズ)に12億円で事業を売却した。

容易に処方箋を集められない

神居秒算の売却後、何さんは2020年秋にAIによる処方箋読み取り・レセコン入力技術の開発に着手した。薬剤師に「手入力が大変で、何とかならないか」と相談されたのがきっかけだった。

病院が発行する処方箋は統一されたフォーマットがなく、医師や病院によって記入方法もさまざま。処方箋をレセコンに入力する作業は、人手不足に悩む薬局の負担になっていた。

「私はAIによる物体認識の研究者だったし、神居秒算のほかにも複数のAIサービスを手掛けていたので、処方箋の読み取りなら開発できると自信があった」と何さん。

だが、AIを訓練するために必要な処方箋データは、氏名、住所、病歴など「個人情報の塊」であることから、個人情報保護法などが壁となり収集が想像以上に難航した。

薬局から容易に処方箋を集められないと分かると、何さんらは社員総出で病院に行きまくり、処方箋を手に入れた。

「歯科検診、めまい、視力が落ちた、花粉症......、少しでも悪いところを探して、週一ペースで受診した」

処方箋のサンプルデータの提供に向け、調剤薬局との交渉も続けた。

「調剤薬局を展開する薬樹となの花薬局の協力を受け、店舗でのテストができるようになった。この2社の協力がなければ製品化には至らず、撤退していた」

入力の精度が徐々に上がり、2022年1月に医療機関向けシステム大手のEMシステムズが自社のサービスに何さんが開発した技術を採用してくれた。その実績が信頼を向上させ、薬師丸賢太の売り上げは右肩上がりで増えていった。

薬師丸賢太は薬剤師が処方箋をスキャナやスマホのアプリで読み取るだけで、必要な情報をレセコンに自動入力する。誤入力の報告率は直近でわずか0.19%だ。

何さんは「AIが情報の解析を終えると画像データは自動で削除される。我々システム側の人間が処方箋の中身を確認することは一切ない」と説明した。

出資は受けず自己資金で運営

何さんは薬師丸賢太の事業化にあたって、「前回の神居秒算で犯した過ちを繰り返さずに、経営を軌道に乗せる」と目標を立てた。

神居秒算は何さんが会社員だった時、中国人投資家に「出資するからぜひやるべきだ」と勧められて立ち上げた。2000万元(約4億2000万円)の出資を受け、まず中国の不動産市場でビジネスを始めた。

投資家からは「赤字なんて気にしなくていい。金を焼き尽くしてシェアを取ってライバルを潰せ。どうやって儲けるかは生き残った後に考えろ」と言われ、広告費をつぎ込んだ結果、2か月で億単位の赤字が出た。途中で日本市場にターゲットを移したが、経営方針を巡って投資家との折衝に苦労したことから、薬師丸賢太は投資家のお金を入れていない。

神居秒算の売却で手にした資金があるとはいえ、売り上げが立たなかった時期はコスト削減を徹底した。

「1回目の起業は最初から30人のチームをつくり、人件費だけで毎月1000万円出て行った。2回目は必要最低限の10人で始めた。上海のオフィスは新型コロナウイルスが流行したときに解約して全員在宅勤務に切り替えた」

広告は出さず、「自分がある程度できるから」とマーケティング担当者も現在まで置いていない。一方、技術を伝えるためにウェブサイトや動画コンテンツはしっかり作り込み、少数精鋭の社員には高い給料を出した。

処方箋のAI入力は、個人情報の壁や技術的難しさから参入のハードルが高い。開発を初めて1年半は売り上げゼロだったが、「しっかりとしたサービスをつくれば、宣伝しなくても顧客が広がっていく」と自信があった。

スタートアップがAIをやるのは難しい

経営努力だけでは超えるのが難しいハードルもあった。

神居秒算が参入した不動産業界では中国人は魅力的な客だったが、安全性を重視する医療業界では、中国への警戒を隠さない人もいた。

「日本の課題を解決したいと思って頑張っているのだが、中国の会社なんですか、データを処理するサーバーはどこにあるの、日本の法律を分かっているの?そういった質問を受けることもあった」

データのサーバーは日本に置き、上海のチームはユーザー体験の改善に関わる開発に専念している。処方箋データはシステム開発側の人間が見ることはないと、そのたびに説明した。

個人情報保護法が壁になり、AIが学習するデータが集めにくい現状については「日本がAI分野で米国や中国に遅れを取っている大きな要因の一つ」と考えている。

「米国にはオリジナルの技術とトップ人材が集まるシリコンバレーがある。中国は新しいものが好きでエラーに対する許容度が大きいので、キャッチアップが早い。日本は前例がない取り組みにおいて、一歩踏み出すことがとても大変」

新技術を活用した業務効率化は、人口減の日本が成長を続けるための重要な鍵でもある。薬師丸賢太を軌道に乗せた何さんは、錠剤の自動カウント技術など次のビジネスプランも思い描いている。そこでもやはり、薬事法などの規制が壁になっているという。

何さんは「悪用を防ぎ、秩序を守る規制が必要なのは理解できるが、新技術を社会に素早く展開できるよう、例外をつくってほしい。悪用したら罰せればいい。今の日本ではスタートアップがAIをやるのはなかなか厳しい」と訴えた。(浦上早苗)


【筆者プロフィール】

浦上早苗:経済ジャーナリスト、法政大学MBA兼任教員。福岡市出身。新聞記者、中国に国費博士留学、中国での大学教員を経て現職。近著に「新型コロナ VS 中国14億人」(小学館新書)。

© 株式会社ジェイ・キャスト