『ゴジラxコング 新たなる帝国』の理知的な試み アダム・ウィンガードがなし得た偉業とは

ワーナー・ブラザースとレジェンダリー・ピクチャーズ、東宝の提携によるハリウッド版ゴジラシリーズに、『キングコング:髑髏島の巨神』(2017年)で蘇った、アメリカを代表するキャラクター、キングコングの世界をクロスオーバーさせるといった映画シリーズ「モンスター・ヴァース」において、二大巨頭のぶつかり合いを描いた映画、『ゴジラvsコング』(2021年)。そんな一作がたどり着いた結末の、次の展開を見せていくのが、『ゴジラxコング 新たなる帝国』である。

怪獣映画ファンにとってのそれは、かつて東洋と西洋の巨大キャラクターが対決するという趣向で製作された、東宝とRKO社提携作品『キングコング対ゴジラ』(1963年)や、ゴジラシリーズをポップかつ娯楽性を高めた怪獣映画として提供した、往年の「東宝チャンピオンまつり」の歴史を彷彿とさせるところもある。

そんな、より荒唐無稽な内容になっていく娯楽性を、さらに追求した本作『ゴジラxコング 新たなる帝国』は、現在のハリウッド映画の資本力と技術によって、もはや誰も観たことのない、一つの極点へと達した映画として完成されたと思える。ここでは、その本作が描いているものと、あまり語られていない意外な魅力の結びつきを解説しながら、形容し難い内容の真価について考察していきたい。

舞台となっているのは、もちろん、ゴジラやキングコングらを含めた、無数のモンスターたちと人類が共存する世界「モンスター・ヴァース」だ。前作で激しい戦いを繰り広げたゴジラとコングは、それぞれ地上と地下空洞世界に君臨する実力者として、その存在が定着し始めている。しかし、そんな力の均衡は、意外なかたちで破られる。地下のさらに奥深くにある場所で、巨大な猿たち(グレイト・エイプ)や古代怪獣シーモを従える新モンスター、スカーキングが、コングの前に立ち塞がるのだ。

前作の評で書いたように、ゴジラとコングのバトルは、『ルーニー・テューンズ』や『トムとジェリー』のような、牧歌的な雰囲気すら感じさせる単純な追いかけっこを、巨費と最新技術によって表現したものに近かった。だが本作では、その趣を少し変え、より映画的なアプローチをとっている。

斧(コングアックス)を構えたコングと、鞭(ウィップスラッシュ)を振り回すスカーキングによる、グレイト・エイプたちを囲んでの一対一の対決は、まさに『ウエストサイド物語』(1961年)などに代表される、アメリカの不良青春映画を想起させるものだ。そこでのコミュニケーションは、身振り手振りや表情によって、サイレント期の映画やミュージカル映画のように、ボディランゲージが駆使されている。

スカーキングが痛みで支配している、古代怪獣シーモの攻撃に遭うことで、コングは一時撤退を余儀なくされる。片腕をひどく損傷するなど満身創痍となったコングは、宿敵ゴジラの加勢を得るべく地上世界へと帰還することに。だが、怪獣ティアマットを撃破し、放射能を大量に吸収することで大幅なパワーアップを遂げているゴジラは、案の定コングの登場に怒り狂い、再びバトルの様相を呈してしまう。

面白いのはそこに、本作ではゴジラの盟友のような役割を担っているモスラが仲裁に入ることで、手のつけられなかったゴジラが一瞬で全ての状況を理解し、コングとの共闘に気勢をあげる姿を見せるという展開だ。二大巨頭が左右に立ち並び、スカーキングたちへの殴り込みへの意欲を表現する構図は、微笑ましさすら感じさせるものがある。悪く言えば荒唐無稽で大味な表現だが、これこそ怪獣映画が必然的にたどる境地を、ある種シンボル化したものだといえるのではないか。

これまで東宝の怪獣映画における、共闘のためのコミュニケーションは、『三大怪獣地球最大の決戦』(1964年)で、「小美人」たちが「ラドンも、そうだそうだと言っています」というように解説することで示されたり、『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972年)において、漫画の吹き出しを採用した演出で表現されてきている。

モスラの圧倒的な説明能力やゴジラの瞬時の理解力が、人智の及ばない部分で発揮されているとした、本作の剛腕といえる表現は、“まだるっこしい説得を観るのが面倒くさい”と考える観客と作り手との共犯関係が実現させたシーンであると考えられる。その意味で本作は、リアリティではなく娯楽の側に思う存分に振り切ったものになっていると同時に、ある種のメタフィジックな視点をとり入れた前衛的な内容になったといえるだろう。

ゴジラがピンク色のエネルギーを全身に纏うことで表現される、20倍ものパワーアップについては、本作のクリーチャー・デザイナーのジャレッド・クリチェフスキーによると、『ドラゴンボール』の孫悟空が駆使する、自身の戦闘力を倍増していく技である「界王拳」にインスピレーションを受けているのだという。つまり、ここでのゴジラは「界王拳20倍」の状態で暴れているということになる。

『ゴジラvsコング』に引き続いて、この豪快かつ荒唐無稽なエンターテインメント作品の監督を務めたのは、またしてもアダム・ウィンガードだ。彼はもともと低予算のジャンル映画を手がけながら、そのなかで真に先端的な表現を続けてきている、稀有な監督として知られている。近年は『Death Note/デスノート』(2017年)などバジェットを大きくしているが、『ゴジラvsコング』でついに超大作を手がけるに至ったのだ。

正直なところ、彼のモンスター大作への挑戦は、その圧倒的な才能を存分に活かせる題材かどうかという部分に疑問符がつくところがあった。小さな規模の映画で圧倒的なセンスを発揮させてきたウィンガード監督のイメージと、世界中の観客を集める怪獣映画との関係に親和性が見出しにくく、どこかボタンをかけ違えているような印象を覚えたのだ。

本シリーズのような、1億ドルを優に超える規模の大作では、監督の才能を見せるよりも、とにかく製作費分を回収することはもちろん、大ヒットさせることが至上命題とされる。その意味で、前作や本作において好調な成績を記録しているウィンガード監督は、たしかに義務をしっかりと果たしているといえる。しかし本作で彼は、かなり挑戦的な手を打ち、自分の持ち味をついに前面に押し出し始めたと感じるのである。

それを端的に示すのが、ダン・スティーヴンスのキャスティングと、彼が演じる奇妙な役柄、獣医トラッパーの活躍である。コングの虫歯を豪快な方法で治療し、さらにはさまざまな危険に笑顔で立ち向かい、仲間たちのメンタルまでケアするという彼のパーソナリティは、あまりにもさわやかでナイスガイだ。それだけでなく、『007』のジェームズ・ボンドのように、海岸のきらきらと輝く光を背負って現れる、耽美的な箇所もある。しかし、このキャラクターは決して物語を構成するために必要な役割を果たすわけではない。圧倒的に“異物”として存在しているのだ。

じつは、ダン・スティーヴンスは、ウィンガード監督の充実したフィルモグラフィーの中で、とくにその天才が表れた作品『ザ・ゲスト』(2014年)の主演でもある。『ザ・ゲスト』は、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督による、謎の美青年が一つの家族を崩壊させていく問題作『テオレマ』(1968年)の現代版リメイクのような一作だ。そういった謎めいた題材を、B級ホラーや1980年代のテイストなど、アメリカ文化を組み合わせて再構成することで、『ザ・ゲスト』は抽象的なアートとして楽しめる作品となっているのである。

『ザ・ゲスト』でダン・スティーヴンスが演じたキャラクターは、戦場で活躍した軍人であるとともに、圧倒的な人間的魅力を発揮し、それがあまりにも極端だからこそ危うい不穏さを発揮するといった、これまでにないタイプの異様な人物だった。本作で彼が演じたトラッパーもまた、兵士のアクションフィギュア「G.Iジョー」シリーズの1980年代に発表されたキャラクターの一部を土台にしているという。

このような事実を総合して考えていくと、ウィンガード監督は、またしても80年代アメリカの表象を色濃く作品に刻みつけようとしていることご理解できる。つまりここでは、『ザ・ゲスト』がそうであったように、本作を荒唐無稽なB級サブジャンル映画としてとらえた上で、それを一段高いところで俯瞰しながら、怪獣映画の要素と、軍人やプロレス、ポップカルチャーなどのアメリカ文化を解体しマッシュアップした、一種の抽象化されたアートとしても提出するという試みを見せているのである。

超大作としてB級映画的な娯楽映画を仕上げ、ともすればメインカルチャーからは鼻で笑われるような展開の面白さを提供しながら、じつはそれ自体をアーティスティックな再構築映画として、さまざまなスタッフの才能を組み合わせながら完成させるという離れ業は、それを段階を追ってさまざまな作品で表現してきたアダム・ウィンガード監督にしかなし得ない偉業であるといえる。この凄さは、例えばクエンティン・タランティーノ監督が、娯楽超大作を撮って成功させることの難しさを想像すれば理解しやすいかもしれない。

そんな多角的な方向からの理知的な試みが、荒唐無稽な展開の数々を包み込んでいると考えれば、本作『ゴジラxコング 新たなる帝国』を、また一つ違って、アメリカ映画の粋をかたどった、優れた芸術としてとらえることができるのである。こういった楽しみ方ができるのも、長年の歴史を経て洗練されていった、現在のアメリカ映画の魅力の一端なのだ。

(文=小野寺系(k.onodera))

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