『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』失われていく子供時代、消えていく故郷

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』あらすじ

1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、何者かに洗礼を受けたとされる7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとしなかった…。

まなざしの超越性


狂信、犯罪、感情操作、権力への執着、消滅する王国。『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』(23)には、イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督がフィルモグラフィーを通してこだわってきたテーマが盛り込まれている。ボローニャのユダヤ人居住区。危険なほど澄み切った夜の空気。ただならぬ静けさに包まれた夜の街は、これから起こる重大な犯罪=誘拐の予兆を告げている。

7歳を迎えるエドガルド・モルターラ少年が歴史の波に呑み込まれていく。ユダヤ人として生まれたエドガルドは、何者かによる洗礼の秘跡により、家族と引き離され、カトリックとして生きていく。当時のカトリックの絶対的な原理により、洗礼を受けた者はキリスト教の家族によって育てられなければならない。政治的・宗教的な理由により、エドガルド少年の人生は取り返しのつかないものになっていく。エドガルドはキリスト教の世界に適合していく(適合はマルコ・ベロッキオが追いかけているテーマでもある)。いつしか少年は「キリストの兵士」となり、自分の“故郷”の輪郭を失っていく。失われていく少年時代。消滅していく王国。マルコ・ベロッキオは問う。少年の“故郷”は、いったいどこに行ってしまったのか。

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)

洗礼を受ける前、生まれたばかりのエドガルドの瞳は、ヘブライ語の祈りを唱える両親をまっすぐに凝視している。この赤ん坊の異様なほどまっすぐな瞳にはどこか恐ろしさがある。寝台から両親を凝視する際の視線の角度、三人の位置関係、構図がとても絵画的だ。マルコ・ベロッキオの映画における、まなざしの超越性。大傑作『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)のヒロインの瞳の強さはすべてを超越していた。ムッソリーニの血走った瞳は狂信の戻れなさを決定づけていた。

寝台の想像力


『エドガルド・モルターラ』には動く絵本のような趣がある。撮影監督のフランチェスコ・ディ・ジャコモによるカラヴァッジョの絵画のような撮影が素晴らしい(フランチェスコの父親フランコは、マルコ・ベロッキオのいくつかの作品の撮影監督を務めている)。

オイルランプやキャンドルの灯りに照らされた部屋で、かくれんぼのような遊びをするモルターラ家の子供たちの瞳。薄明りに光るパジャマの純白さと共に、子供たちの黒目の輝きだけでなく、白目の部分の白さがとても強い印象を残す。寝台の下に隠れる子供たち。的確なショットと演出が連鎖していくこの秀逸なシーンにおいて、マルコ・ベロッキオの映画のイメージを象徴する寝台というアイテムが用いられていることに注目したい。本作において寝台は子供時代の無垢なノスタルジアと、これから始まる人生の悪夢の両義性を無限に広げていく。不吉な赤ん坊のまなざしも寝台から向けられていた。

ボローニャから強制的に連れ去られ、ボートに乗るエドガルド。エドガルドは移動の最中に眠りに落ちてしまう。深い霧が立ち込める川を進んでいくボート。二度と戻れない“人生の航路”を往くような不穏な空気。目覚めたエドガルドは、十字架を抱え葬送の儀式をする教徒たちの行進を目撃する。ユダヤの家庭に育った少年にとって、それは初めて見る鮮烈なイメージだったであろう。エドガルドの少年時代は子供の低い視点から撮られている。エドガルドが磔にされたキリスト像を見上げるショットの角度には、未知なるものに接する少年の好奇心と恐れがある。

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)

エドガルドがキリスト教の教育を受ける施設には、自分と同じ境遇の子供たちがいる。このシーンにおいても寝台のイメージは強烈な印象を残す。子供たちの寝台の並びを捉えるショットが、どこか精神科病棟のようにも見えてくる(マルコ・ベロッキオは精神科病棟に関するドキュメンタリーを撮ったことがある)。ユダヤ人であるエドガルドは、後天的にキリスト教に適合していく。感情は操作され、“他者”であったはずのキリスト教の経験を自分のものにしていく。少年時代のエドガルドはこの寝台でどんな涙を流したのだろう。そしてどんな夢を真っ暗な天井に映したのだろう。

寝台に横たわる病気の子供。この施設で共に生きた仲間の死が、エドガルドの潜在意識に大きな影響を与えたことは想像に難くない。映画=人生は反復される。エドガルドは寝台で死にゆく者を二度見つめることになる。

適合と断絶


『エドガルド・モルターラ』は少年の物語であり、エドガルドの母マリアンナの物語でもある。エドガルドは教皇直属の兵士たちに連れ去られる際、マリアンナのスカートの中に隠れる。また子供時代のエドガルドは、就寝前にマリアンナとベッドのシーツにくるまりユダヤのシェマを唱えていた。息子を奪われたマリアンナは錯乱する。両親はエドガルドを取り戻そうとする。

マルコ・ベロッキオの映画においては、錯乱状態にあるとき、または社会から“狂気”のレッテルを貼られるとき、登場人物には絶対的な超越性が生まれる。そこにはその行動を正しいかどうかジャッジすること以上のものがある。登場人物のオペラ的な過剰さが皮膚感覚で核心に迫ってくるのだ。マリアンナを演じるバルバラ・ロンキによる目の演技がいつまでも脳裏に焼き付く。

キリスト教に染まっていくエドガルドにとって、教皇ピウス9世は新たな“父親”となっていく。敷地内でかくれんぼをするとき、エドガルドはピウス教皇の法衣の下に隠れる。ボローニャの家から連れ去られようとしているとき、マリアンナのスカートの下に隠れたあのときと符合するシーン。このユーモラスなシーンは、エドガルドの改宗、そして家族の変更が完了に向かっていることを残酷に告げている。エドガルドは教皇のことを慕っている。

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)

この頃のピウス教皇はイタリア統一へ向けて動き出す世論の敵だった。権力に執着するピウス教皇は寝台で割礼の儀式を受ける悪夢を見る。エドガルドの誘拐事件はユダヤ人のコミュニティをはじめ世論に激しく批難されていく。教皇国家の失墜。しかしピウス教皇は屈服しない。教皇にとっての正義は、キリスト教によってエドガルドを救うことだ。エドガルドの両親のために泣いた世の人々は、自分もまた彼の父親であることを忘れていると、実際の教皇ピウス9世は嘆いている。この問題の難しいところは、エドガルド自身の忠誠=故郷がどこにあるかということだろう。エドガルドの改宗、適合はすでに完了している。シーツの下でシェマを一人で唱えていたユダヤの少年はもうどこにもいない。

『エドガルド・モルターラ』は信仰を批判するのではなく、宗教の制度を濫用する者を批判する。映画はイタリア統一に向けて大きな時代の変遷を迎える。悪魔に取り憑かれたようなエドガルドの錯乱ぶりに胸が引き裂かれる。エドガルドにとって両親と教皇はどちらも“真実”なのだろう。そこに合理性はない。だからこそマリアンナのスカートの中、寝台のシーツの中、教皇の法衣の中、たった一枚の布切れを隔てた断絶に取り返しのつかない人生が浮かび上がる。マルコ・ベロッキオは、断絶された犠牲者の痛みを映画にとどめ、この問題を過ぎ去った時代のものとしないようにしている。

文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』を今すぐ予約する↓

作品情報を見る

『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』

4月26日(金)よりYEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、

ヒューマントラストシネマ有楽町、T・ジョイPRINCE品川他にてロードショー中

配給:ファインフィルムズ

© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)

© 太陽企画株式会社