【佐橋佳幸の40曲】スキマスイッチ「ボクノート」世代を超えた愛すべき “音楽オタク” たち  同じ “音楽好き” として、あっという間に意気投合した佐橋佳幸とスキマスイッチ

連載【佐橋佳幸の40曲】vol.24 ボクノート / スキマスイッチ 作詞:スキマスイッチ 作曲:スキマスイッチ 編曲:スキマスイッチ

松たか子を通じてスキマスイッチを知った佐橋佳幸

大橋卓弥と常田真太郎による2人組ユニット、スキマスイッチ。1999年に結成、2003年にメジャーデビュー。以来、昨年で20周年を迎えた。が、昨年デビュー40年を迎えた佐橋佳幸からするとまだまだ “若手” 。頼もしくもかわいい後輩的存在のようだ。

佐橋がスキマスイッチの存在を知ったきっかけは、松たか子。まだ結婚前だった頃だが、すでに松の音楽活動全般を支えるプロデューサーをつとめていた佐橋は、彼女を通してスキマスイッチというユニットの存在を知ったのだった。

「松さんは自分でも曲を書く人なんですけど。なにせ忙しくてなかなか時間もないし。それに、あの歌声でしょ。いろんな人の曲を歌わせてみたいなっていう周りの思惑もあって。日頃からずっと、面白い曲を書くソングライターはいないかと探している状態だったんです。で、ある時、松さんが “スキマスイッチっていう人たち、面白いですよ” って教えてくれたの。彼らはデビューしたばかりだったのかな。でも、松さんはインディー盤の頃から注目していたらしい」

「で、聴かせてもらったら、たしかに曲もいいし、歌もよくて。ギターも自分で弾いているみたいで、けっこうアコギもうまくてさ。“彼らにコンタクトとってみようか、他の人にも曲を書いてくれるかな…” なぁんてことを話していた数日後、なんと僕のマネージャーから “スキマスイッチっていうグループから佐橋さんにギターダビングをお願いしたいというオファーが来たんですけど…” という連絡があったの。もう、すっごいタイミングでさ。もちろん、“行く行くー” ってふたつ返事で引き受けた。それが僕とスキマスイッチの初対面だった」

自分の世代にはない新しい視点で生み出されるスキマスイッチの楽曲

直接会って、松たか子への楽曲提供を頼むには絶好のチャンスだった。と同時に、佐橋自身、同じミュージシャン / ソングライターとして彼らの若々しい音楽性に興味をそそられていた。まだ40代ではあったがすでにデビューから20年、ベテランの域に入りつつあった佐橋にとって、自分の世代にはない新しい視点で生み出されるスキマスイッチの楽曲は新鮮だった。そうした流れのもと、ギターダビングで初参加したスキマスイッチの曲は4作目のシングル「冬の口笛」(2004年)。彼らにとって初のトップテンヒット、最高位6位を記録した楽曲だ。

「自分たちでアレンジもやっていて。だから、当日スタジオに行ったら、ほぼオケは完成していた。で、最後にアコギをダビングして。その日、たしか、もう1曲ぐらい何か録音したような記憶があるけど。とにかく、それでスキマのおふたりとのご縁ができたんです。なんでも大橋くんが、今回はプロのギタリストの人を呼んでみたい… ということで僕を指名してくれたらしい。とにかく彼はギターが大好きな子でさ。いろいろ詳しくてね。だから、会っていきなりギター話もはずんで。いっぽう常田くんのほうはその時期、アレンジについて猛勉強していてね。僕にも、会ったその日から “いろいろ教えてください!” みたいな感じでさ。それでもう、ふたりともすっかり仲良くなって…」

世代の違いなど軽く超えて、佐橋のオタクっぷりと共鳴

佐橋とスキマ。世代の違いを超え、同じ “音楽好き” として彼らはあっという間に意気投合した。とはいえ、仲良くなる、そのなり方にも時代の違いが反映されていたようだ。音楽オタクの佐橋が仲良くなる “音楽好き” は、それまでだったらいわゆる “洋楽好き” がほとんど。佐橋の青春時代、音楽好きが高じてミュージシャンになるような連中は、たいがいが筋金入りの洋楽オタクというのがセオリーだった。が、21世紀を迎える頃になると、少しずつ状況が変わってきた。

「彼らの世代って、みんな邦楽育ちでしょ。僕らの世代だったら絶対に洋楽を聴きまくってないとできないようなことを、まったく洋楽に詳しくない子たちがふつうにできちゃう。そういう世代が出てきて、時代が変わってきたんだな… と。音楽オタクとしての僕はそういうところで実感していたんですね」

1970年代、はっぴいえんどに代表される偉大な先達に刺激されてミュージシャンを志した佐橋世代にとって、日本のポップ音楽のクオリティを上げるには洋楽が必修科目だった。が、そうした世代のがんばりもあって、1990年代、J-POPというジャンルが生まれる頃になると邦楽のクオリティが飛躍的に向上。おかげで、洋楽的な要素もすべて日本生まれのポップ音楽から吸収する若い世代が台頭してきた。はっぴいえんど以降の日本のポップシーンが確実にある種の成熟を手にした証だった。スキマスイッチはまさにそういう新世代の代表。が、音楽への情熱も、探究心も、人並外れていた彼らは、そうした世代の違いなど軽く超えて、佐橋のオタクっぷりと共鳴した。

「スキマのふたりもそういう邦楽育ち世代だったんだけど。でも、“いろいろ教えてください” って言われたの。“僕らがやろうとしてることを深めていくには、どういう洋楽を聞いたらいいんですかね…” みたいなことも聞かれたりして。それで、当時の僕の仕事場に来ては片っ端からCD借りまくって行ってさぁ… あっ!今ごろ思い出したけど、そういえばまだ返してもらってないCDがあるぞ(笑)。ま、それはいいとして。とにかく、いろいろ教えてあげてね。僕が当時、AOR系のレコードとかめっちゃ仕込んでいた大阪のレコード屋さんを “大阪行くなら、絶対ここに行ってこい” と教えたり。そういうオタクの道に彼らをどんどん引きずりこんでいったわけですけど(笑)」

松たか子への楽曲提供の依頼もけっして忘れていなかった

と、佐橋のオタク養成学校にまんまと入学させられることになったスキマスイッチ。が、逆に佐橋も、彼らを通じて自分の知らない日本の新しい 音楽を教えてもらうことになった。そういう意味では、メジャーデビュー前からスキマスイッチにいちはやく注目し、佐橋とスキマの縁を結んだ松たか子もまた、そういった新世代の音楽好きのひとりだったわけだ。

「そうそう。松さんはね、インディーズものとかにも詳しくて。当時もGOING UNDER GROUNDとか、TRICERATOPSとか、cool drive makersとかにいち早く注目していて。いろいろキーワードを出してくるのは松さんだった。だから、スキマとも松さんのおかげで話は早かったですね。でも逆に、僕やライヴのスタッフたちは、よってたかって松さんにキャロル・キングとかジェイムス・テイラーとかを聴かせたり…(笑)。僕と松さんは、お互い守備範囲がちょっと違っているところがいいのかもしんない」

ちなみに、佐橋は最初にギターダビングに呼ばれた時の重要なミッション、つまり松たか子への楽曲提供の依頼もけっして忘れていなかった。2006年3月にリリースされた松たか子19枚目のシングル「明かりの灯る方へ」は、スキマスイッチが楽曲提供およびプロデュースを担当。さらに、この曲を含む7枚目のアルバム『僕らがいた』(2006年)にも、もう2曲、「そして僕の夜が明ける」と「水槽」というスキマスイッチからの提供曲が収録されている。ちなみに後者、「水槽」のほうは佐橋が編曲を担当。松はボーカルのみならず、コーラス、ピアノ、ヴィブラフォン、パーカッション、メロディカ、ハモンドオルガンまで、すべての楽器を1人多重録音で手がけている。

「そんなこんなで、松さんに曲を書いてもらいつつ、僕は僕でスキマスイッチのレコーディングの常連になっていくんです。“こういう曲ができたんで今度やろうと思うんですけど” とか、先に聴かせてもらって相談にのったり。あと一時期は僕、常田くんのアレンジの先生状態で。彼が初めてブラスアレンジした時なんかは、“あのー、楽器の音域表を見るとトランペットはこの音までしか出ないって書いてあるんですけど、この音は書いても大丈夫なんですかねー” って聞かれて。“それは人によるからなぁ。書くだけ書いてみて、出ないって言われたら考えればいいじゃん” って答えたら、“ええーっ、僕、そう言われるの怖くてビビってるんですけどー” みたいな(笑)」

絶対に失敗できないビッグなタイアップ、勝負の1曲だった「ボクノート」

かつて佐橋がストリングスのアレンジを始めた頃、苦心して書き上げた譜面を清水信之センパイに見せると、さっと目を通したセンパイには “いいんじゃないか? ま、これで笑われてこいよ” などと言われていたものだった。そんな “愛のムチ” を彷彿させるやりとり。

「そうそう。まさにそれ。同じことを常田くんにやっていたという(笑)」

そんなふうに、すっかり仲良くなった佐橋とスキマスイッチ。スタジオワークだけでなく、ときどき飲みにも行ったりするようになった中で生まれたのがスキマ7作目のシングル「ボクノート」だ。全国東宝系映画『ドラえもん のび太の恐竜2006』主題歌。絶対に失敗できないビッグなタイアップ、すでに人気者だった彼らにとっても勝負の1曲だった。

「これ、たしか最初から『ドラえもん』映画の主題歌ってことが決まってたんだよね。彼らもすごい気合が入ってた。で、僕はアコギを弾いて欲しいと言われたの。“あれ、大橋くんがアコギ弾くんじゃないんだ?” って思ったんだよ。彼もすごいギターがんばっていてね。どんどんアコギも上達して。だから、“僕が弾いてもいいんだけど、自分で弾けそうなのはなるべく弾いたほうがいいよ” ってアドバイスしたの」

「 “レコーディング、丁寧に時間かけてやればいいじゃん” って。でも、この曲に関しては常田くんがけっこうがっちりアレンジを作っているんで “どう弾いたらわからないんです” って。そんなわけで僕がアコギを弾くことになって。で、スタジオに行ってみたら、話に聞いていたとおり、もう、がちがちにアレンジもできちゃってる。たしかにアコギ、どう入れていいんだか…。でも、“わかった” って。弦やらピアノやらがいろんなフレーズやってる間を縫って何ができるか考えて。すごい苦心してこのアコギのパートを作ってあげました」

スキマらしくシンプルにできていると聴こえるように…

常田がすでに完璧に構築した音像の下、いかに自然な形でアコースティックギターのフレーズを溶け込ませていけばいいか。シンプルなようでいて、とてつもなく繊細な作業だったようだ。

「僕が好きなように弾くのではなく、常田くんが作った音世界を壊さないように、でも、スキマらしく基本はアコースティックギターとピアノだけでシンプルにできていると聴こえるように… というところは難儀しました。すごい大変だったんだよ。でもね、面白かったんだよなぁ。アコギをどう入れるか考える時、常田くんとふたりでピアノのところに行って、会話をしながら作っていった覚えがあります」

 ここどう弾いた?  こうです  じゃ、この音は僕が弾いてもいいよね?  あ、いいかも

「途中、印象的なアルペジオのリフを弾いているところがあるんだけど、あそこが突破口になったかな。あれを思いついた瞬間からさーっと全部うまくまとまっていった感じ。ここで常田くんがピアノでこの音弾いてるから僕のアコギはそこを避けようとか、逆に、ふつうだったら避けるところをあえて一緒に弾いて強調してあげようとか。そういう、アレンジャー的な発想で考えながら作っていった。彼らとの間に信頼関係ができあがっていたからこそ、彼らに頼ってもらって、ここまで踏み込んだ形で参加できたのかな」

さらにこの曲で佐橋はペダルスティールギターも弾いている。

「何かの曲で僕がペダルスティール弾いているのを聴いたらしくて。あの楽器を使ってみたいと。で、ギターを入れた後に要所要所にペダルスティールも入れた。“なんか気になるところあったらカットしていいからね” って言って終わったんだけど。たぶん、ほぼそのまま入ってるのかな。ずっと左側から聞こえているのがペダルスティールです」

最高位3位、スキマスイッチのライブにも欠かせない「ボクノート」

こうして完成した「ボクノート」は、ご存じの通り大ヒット。当時のスキマスイッチとしては史上タイの最高位3位にランクイン。彼らの代表作のひとつとなった。今でもライヴでしばしば演奏されている。ちなみに、以前この連載にも登場したことがあるギタリスト、石成正人から佐橋は面白いエピソードを聞いたという。石成は高校時代に見に行った宮原学のコンサートでギターを弾いていた佐橋の姿を見てギタリストを目指し、今やMISHA、JUJU、藤井フミヤなどのサポートで大活躍中。スキマスイッチのライブにも欠かせない存在だ。

「この前、MISIAのライヴで石成くんと一緒になった時、「ボクノート」の話になったの。この曲をライヴでやる時、大橋くん、今も絶対にアコギ弾かないんだって。弾きながら歌うのは無理だからって(笑)。たしかにちょっと複雑なんだよ。それで石成くんはスキマのふたりから、“お願いだからこの曲は佐橋さんのプレイを完コピして欲しい”って言われたんだって。“1音もらさず完璧にコピーしてほしい。まったく同じように弾いてください。そうしないとああいうふうにならないように佐橋さんが作っちゃったから” と(笑)。石成くん、“それにしても、あれ、よく思いつきましたねぇ。スキマスイッチの歴代ギタリストはこの曲でみんな苦労してますよ” って。ほめられちゃいましたぁ」

ほめられたのやら、陳情なのやら… 。罪作りな佐橋である。

次回【佐橋佳幸の仕事 1983-2023 vol.1】をお楽しみに(5/11掲載予定)

カタリベ: 能地祐子

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