釜本引退、奥寺渡独の日本代表とソ連が激突【夢の「ハワイ旅行」帰りに国立競技場で見た「夢」】の巻(2)

アムール戦の入場券。単色刷りというあたりにも、「ヤル気」のなさが感じられる。提供/後藤健生

時間がずいぶんと昔に巻き戻されたようだ。多くの人が記憶にないような円安へと為替相場が進んでいる。そんな時代にも、蹴球放浪家・後藤健生は海を渡っていた。ハワイから、国立競技場へ。そんな夢のような旅行をしたのは、1978年のことだった。

■ハワイ帰りに羽田から「国立競技場」へ

その「アップダウンクイズ」に出場して優勝したのは1976年の秋のことで、賞品のハワイ旅行は1977年にあったのですが、他に用事があって参加できず、1978年の旅行に参加させてもらいました。

こうして、出発した1週間弱の「夢のハワイ旅行」。ホノルルだけでなく、ハワイ島やカウアイ島も訪れるという、なかなか豪華な旅行でした。

しかも、参加者はクイズ番組の優勝者ばかりですから、同年代の参加者同士で意気投合(ちなみに、当時、僕は25歳の青年でした)。帰国の前夜は飲み会となり、ほとんど一睡もせずに帰国便に搭乗することとなりました。

こうして、僕は3月26日の朝、東京の羽田空港に戻ってきたのです。

そして、僕は荷物を持ったまま羽田から国立競技場に向かいました。「朝日国際サッカー」の第3戦、日本代表対アムール・ブラゴベシチェンスクの試合があったのです。

■日本代表と「ソ連3部のチーム」が3連戦

アムールはソビエト連邦(当時)を構成するロシア共和国のブラゴベシチェンスク市のチームで、当時はソ連の3部リーグに所属していました。

ブラゴベシチェンスクはアムール河に面した人口20万人程度の都市で、アムール河(中国名は「黒竜江」)を挟んで中国黒竜江省の黒河市に面しています。現在は、多くのロシア人が経済発展を遂げた中国に、買出しに行く拠点となっているようです。

当時のソ連は世界のサッカー強国の一つでしたが、「いくらなんでも3部リーグのチームには勝てるだろう」と、当時のサッカー・ファンは思っていました。

しかし、3月19日に国立で行われた第1戦はスコアレスドローでした。

前年に釜本邦茂が代表から引退し、後継者と見なされていた奥寺康彦も1FCケルンと契約してドイツに渡ってしまったため、ストライカー不足は深刻。そのため、二宮寛監督はアムールとの第1戦ではセンターバックの斉藤和夫をワントップで起用したのですが、それも不発でした(ちなみに、斉藤さんは僕より年長の選手で、最後まで日本サッカーリーグ1部でプレーしていた選手です)。

そのアムールとの第1戦を観戦した翌日、僕は「夢のハワイ」に旅立ったのですが、その後、大阪・長居での第2戦で日本代表は0対1で敗れてしまいました。

■22歳の若手FW西野朗が「先制ゴール」も…

そして、第3戦。日本代表は前半8分に22歳の若手FW、西野朗が先制ゴールを決めましたが、その後2点を奪われて、ソ連3部リーグのチームに1分2敗と負け越してしまったのです。

内容的にも見るところはほとんどなく、おそらく史上最低の代表戦だったのではないでしょうか。

試合内容は寒かったのですが、当日の東京はよく晴れて暖かい日差しに包まれていました。観客数は主催者側の概数発表でも5000人。現在のような実数発表なら2000人台だったでしょう。

ガラガラの国立のバックスタンドで観戦していた僕は、そんな世紀の凡戦を見ながら前夜来の疲れと睡眠不足が出て睡魔に襲われ、とうとうバックスタンドのベンチに横になって寝入ってしまったのです。試合中にあれだけよく眠ったのは、最初で(今のところ)最後の出来事でした。

「夢のハワイ旅行」から帰国してすぐ、国立のバックスタンドで見た「夢」は何だったのか……。今となっては何も思い出せませんが、当時の日本サッカー界の最も現実的な「夢」は「オリンピック予選突破」でした。「ワールドカップ出場」などはまだ「夢」にすらなっていない、そんな大昔のお話です。

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