ボブ・マーリーを巡る音楽関係者:バンドやプロデューサーたち

海外で2024年2月14日に劇場公開され全米興行収入2週連続1位を記録、英仏ではあの『ボヘミアン・ラプソディ』を超える初日興行収入、母国ジャマイカでは初日興行収入としては史上最高数を記録したボブ・マーリー(Bob Marley)の伝記映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』。

日本では2024年5月17日に公開されることを記念して、ライター/翻訳家の池城美菜子さんによるボブ・マーリーの生涯と功績についての連載企画を掲載。

第4回目は、ザ・ウェイラーズのメンバーや同郷の先輩ミュージシャンについて解説いただきました。

___

 

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』公開記念の連載、折り返しの4回目。今回は、彼の人生と音楽を支えたミュージシャンやメンター(先輩)、プロデューサーを解説する。

伝説の数々と、神様レベルのカリスマ性のおかげでボブ・マーリーひとりに焦点が行きがちだが、「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」は「バンド」である。複数の伝記を参照すると、ジャマイカ国内で人気コーラス・グループだった頃から、ボブは音楽制作における共同作業の重要性、売り出すまでのシステムの過酷さ、周りに置く人間の見極め方をわかっていたように思う。

彼が活躍した1960〜70年代から、半世紀が過ぎている。当然、関係者の証言も食い違う。ただひとつ、皆が口を揃えることがある。ボブが完ぺき主義者で、延々とリハーサルを行ってつねに改良を重ねていたこと。それについて行った周りもすごいのだ。

 

コーラス・トリオとしてのザ・ウェイラーズ

10代のボブは、6人組のコーラスグループとしてスタートし、ピーター・トッシュとバニー・ウェラーのトリオに落ち着いた。はじめは、「ザ・ウェイリング・ウェイラーズ(慟哭するように泣き叫ぶ人)」と名乗っていた。ザ・ウェイラーズのメンバーがそれぞれ抜きん出た才能の持ち主だったのは、ボブのキャリアの奇跡のひとつだろう。

 

ピーター・トッシュ / Peter Tosh(1944-1987)

190センチを越す長身だったピーターは、“Stepping Razor/歩くカミソリ”との異名を取るほどの存在感を放ち、切れ味の鋭い歌詞を書く作詞家、優れたギターリストであった。

アイランド・レコードのクリス・ブラックウェルと反りが合わず、1974年に脱退。ソロになってからは『Legalize It』(1976)や『Bush Doctor』(1978)など、ラスタファリズムの視点から政治的にはっきり主張のある名盤を残した。ザ・ローリング・ストーンズのオープニング・アクトに起用されると同時に、ミック・ジャガーやキース・リチャーズにも影響を与えている。1987年、ツアーから帰った直後、自宅に押し入った3人組の強盗に射殺された。

 

バニー・ウェイラー / Bunny Wailer(1947―2021)

バニーはセント・アン教区からのボブの幼なじみにして、バニーの父とボブの母・セデラ・ブッカーが婚姻関係にあったため一時期は義兄弟でもあった。ギョロ目と温かみのあるヴォーカルが目印。ボブ・マーリーの生い立ちやレゲエ黎明期の生き証人、ラスタファリズムの伝道者、レゲエの重鎮としての役割を長いこと果たした。

マーリー・ブラザーズからも「アンクル」と慕われ、共演曲も多い。ソロになってからはディスコやダンスホールを取り入れるなど、先進性もあった。グラミー賞の最優秀レゲエ・アルバムを3回受賞している。

 

バックバンドとしてのザ・ウェイラーズ

1974年にピーター・トッシュとバニー・ウェイラーが脱退してからは、ボブがメイン・ヴォーカル、ザ・ウェイラーズはバックバンドという構成になった。バレット兄弟などコア・メンバーはいたが、それぞれほかのアーティストとも仕事をしていたため、入れ替わりが激しかった。

ボブ・マーリーの死後も活動を続け、彼の代表曲を演奏して世界を回った。日本では、ジョー山中がアルバムを一緒に制作している。ここでは、映画で中心になる1977~79年に在籍したミュージシャンたちを紹介する。

 

アストン“ファミリー・マン“バレット/Aston ‘Family Man’ Barrett(1946-2024)

弟のカールトン・バレットとともに、バレット・ブラザーズとして文字通りジャマイカ音楽の土台を作ったリズム・セクションのベーシスト。1960年代からザ・ヒッピー・ボーイズ、リー・ペリー率いるジ・アップセッターズのメンバーとして活躍したのち、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの要として支える。

同じくジャマイカが誇る、リズム・セクションにしてプロデューサー・チームのスライ&ロビーのロビー・シェイクスピアのメンターでもある。レコーディングでプロデュースにも関わったものの、きちんとクレジットされなかったため、のちにクリス・ブラックウェルらを相手に訴訟を起こし、示談になった。

子どもが41人いるのは事実だが、「ファミリー・マン」のニックネームは子沢山になる前から使っていた、と本人が述べている。ザ・ウェイラーズとして複数回、来日を果たした。彼やスライ&ロビーの生演奏の迫力、ドライブ感はレゲエの心臓の強度を現していた。映画では、やはりベーシストの息子のジュニアが演じている。

 

カールトン・バレット/ Carlton Barrett(1950-1987)

アストン・バレットの弟にして、ルーツ・レゲエ特有のドラムパターン、ワンドロップを世に知らしめた功労者。兄とともに60年代のレゲエ黎明期から活動しており、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのドラムはもちろん、脱退したピーター・トッシュやバニー・ウェイラーのソロ・アルバムでもドラムを叩いている。

1987年、自宅の前で射殺される。のちに妻とその恋人が殺人教唆で有罪となった。享年36はボブと同じである。

 

ジュニア・マーヴィン/Junior Marvin(1949-)

キングストン生まれ、ロンドン育ちのギタリスト。劇中に出てくるように、バンドに加入したのは1977年と遅かったが、ボブの死後もしばらくザ・ウェイラーズ・バンドのメンバーとしても活動していた。

ザ・クラッシュがカヴァーした「Police and Thieves」をスタジオ・ワンで録音したジュニア・マーヴィン(Junior Murvin)と紛らわしいせいか、さまざまな名前でクレジットされている。ジャマイカのアーティストのみならず、アルファ・ブロンディや日本のツトム・ヤマシタとも演奏している。アストン同様、劇中では息子が演じている。

アル・アンダーソン/Al Anderson(1952-)

アメリカはニュージャージー州出身のロック/レゲエ・ギタリスト。アイランド・レコードに雇われたことから、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに参加。70年代の後半はツアー・メンバーとして、ザ・ウェイラーズとピーター・トッシュのワード・サウンド・アンド・パワー・バンドの間を行ったり来たりした。

前述のジュニア・マーヴィンとともに、一時期、「オリジナル・ウェイラーズ」を結成していた。ローリン・ヒルの『The Miseducation of Lauryn Hill』(1998)にも参加している。

 

ドナルド・キンゼイ/Donald Kinsey(1953-2024)

アメリカはインディアナ州出身のブルース/レゲエ・ギタリスト。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの一員にして、ピーター・トッシュのバンド、ワード・サウンド・アンド・パワー・バンドにも在籍した。1980年代は家族でブルース・バンド、キンゼイ・レポートを結成した。

アイランド・レコードと契約してから、ボブの音楽が世界で受け入れられやすくなった理由のひとつに、彼のようにほかのジャンルも演奏できるメンバーが違った視点でレゲエを解釈したこともあるだろう。

 

アール“ワイヤー”リンド/Earl “Wire ”Lindo(1953-2017)

キングストン生まれのキーボーディスト、ギタリスト。オルガンからクラヴィネットまで操る。1973年から1年ほどボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに滞在したのち一旦抜け、ブルースのタージ・マハールのバンド・メンバーとして活動。

1978年にザ・ウェイラーズに再加入した。『Babylon By Bus』以降の3作品に参加。

 

タイロン・ダウニー/Tyron Downie(1956-2022)

通称、オルガン・D。バンドのメンバーとして『Live!』(1973)から、レコーディングは『Rastaman Vibration』(1976)から参加したキーボーディスト。学生時代から活動を始め、スカ/ロックステディ・ファンにはおなじみのインパクト・オールスターズにも参加している。

レゲエ・アーティストのみならず、イアン・デューリーやトムトム・クラブとも演奏し、フランスのユッスー・ンドゥールのバンド・メンバーだった時期もある。

 

アルヴィン“シーコ“パターソン/Alvin “Seeco” Patterson(1930-2021)

キューバ生まれのパーカッショニスト。ボブより15歳年上のトレンチ・タウン時代からの友人であり、若い頃は炭鉱夫をしていた。ボブの助言によってボンゴやコンガを叩くようになる。

彼がカリプソやメントといったカリブ海発祥の音楽から演奏方法のヒントを得たことで、バックバンド体制になったザ・ウェイラーズの音色に奥行きをもたらした。1976年の銃撃事件の際も家の中におり、ボブ・マーリーのドイツでの最期の日々もつき添った。

 

バックコーラス以上の存在だったThe I-Three

コーラス・グループからバンド体制になり、バックコーラスとして女性シンガーの3人がツアーに帯同した。I-Threeはもともと「s」がなく、リタの自伝やほかの伝記、1995年の来日時はそちらの表記で統一されていた。英語の文法的に「s」をつけたほうが自然なため、「アイ・スリーズ(The I-Threes)」が現在は優勢だ。

 

リタ・マーリー/Rita Marley(1946-)

19歳でボブと結婚したリタの功績は多岐に渡る。「No Woman No Cry」で歌われている通り、キングストンの貧しい地域のひとつ、トレンチ・タウンでボブと出会い、家族関係に恵まれなかった彼を支えた。音楽活動に力を入れてからは一緒にレコード・ショップやレーベルを運営した。

ボブとの間の実子はセデラ、ジギー、スティーヴンの3人だが、自分の連子であったシャロンをボブが可愛がったように、ほかの女性との間に生まれた子どももボブは受け入れた。ボブが遺書を残さなかったため、死後に名声が高まってからは権利関係の裁判沙汰に巻き込まれてしまう。自身もソウレッツのメンバーとして歌い始め、のちにアイ・スリーとしてレコーディングやツアーに参加した。

 

マーシャ・グリフィス/Marcia Griffiths(1949-)

スカの時代から活動を始め、各年代にもヒットを飛ばしてきたレゲエの女王。1970年にはボブ・アンディとのデュエット、ボブ&マーシャ名義の「Young Gifted and Black」がヒットし、80年代はアイランド・レコード傘下のレーベル、マンゴーからラインダンスの定番となったエレクトリック・スライドを生み出した「Electric Boogie」(1980)で席巻した。ちなみに、ビヨンセも2023年の『ルネッサンス・ツアー』で取り入れていた。

90年代はダンスホール・レゲエ・ブームを牽引したドノヴァン・ジャーメインのペントハウス・レーベルの看板シンガーとして、べレス・ハモンドやブジュ・バントンとともに活躍。定期的に来日公演をしてくれる親日家でもある。アイ・スリーの振りつけで歌うボブ・マーリー・メドレーは、何回観ても感動する。

 

ジュディ・モワット/Judy Mowatt(1952-)

アイ・スリーに最後に加入し、よく伸びる高音とソウルフルな歌声でコーラスの幅を広げた。ソロになってからも質の高いアルバムを作り続け、アイランド・レコードからリリースした『Black Woman』女性シンガーで初めてグラミーの最優秀レゲエ・アルバムにノミネートされた。

ラスタファリアンであったが、1990年代にクリスチャンに改宗。その後はゴスペル・シンガーとなる。そのせいか、アイ・スリーとしてステージに出演する機会も減ってしまった。

 

歴史を変えたプロデューサーたち

ボブ・マーリーは、ジャマイカのポピュラー音楽の基礎をさまざまな角度から築いたプロデューサーたちと組み、自らのキャリアとともに歴史を作り上げて行った。

 

クリス・ブラックウェル/Chris Blackwell(1937-)

イギリス生まれでジャマイカで育った、アイランド・レコードの創始者。20代に入ってすぐの1958年にレーベルを始め、ジャマイカの音楽を世界に紹介した。ジミー・クリフ主演のジャマイカ映画『ハーダー・ゼイ・カム』(1972)の制作に携わったり、ホテル業を成功させたりと実業家として多岐にわたって成功している。

ジャマイカの実質的な支配階級である富裕層の白人であるため、ピーター・トッシュやリー・ペリーに恨まれ、レゲエ史に詳しい音楽評論家にも悪く書かれがちだ。だが、ボブ・マーリーからU2、トム・ウェイツまで手がけた手腕はたしかで、レゲエのみならずサリフ・ケイタやババ・マールなど、日本でも人気のアフリカのスターを売り出す先見の明もあった。

 

コクソン・ドッド/Coxsone Dodd(1934-2004)

ジャマイカの音楽ビジネスの礎を作ったプロデューサー。アメリカ南部で聴いたリズム&ブルースを1950年代半ばに故郷に持ち帰り、大きなスピーカーを擁するサウンドシステムで紹介する。ザ・スカタライツをはじめ、多くのミュージシャンやシンガー、ラッパーの祖でもあるDJなどの才能を発掘。レーベル、スタジオ・ワンを運営し、ジャズとリズム&ブルースをジャマイカ流にアレンジして、踊りやすいスカを流行らせた。

さらにテンポを落としたロックステディ、イギリスからの独立の気運が反映されたレゲエ黎明期まで、スタジオ・ワンで作られた曲はいまでもレゲエ・ファンの間で高い人気を誇る。その一方、印税や著作権など権利をめぐるビジネスが整っていなかったことを利用したため、不平を募らせたアーティストが立ち去ってしまうケースも多かった。

 

ジョー・ヒッグス/Joe Higgs(1940-1999)

「ゴッド・ファーザー・オブ・レゲエ」とも呼ばれる。1950年代の終わり、ジャマイカのポピュラー・ミュージックの黎明期からソロもしくはロイ・ウィルソンとヒッグス&ウィルソンと名乗るデュオとして活動。彼らの「Manny Oh」(1959)はジャマイカ初のヒット・ソングと言われる。これをレコーディングしたのは、音楽業界から政界に進出、首相となるエドワード・シアガである。このシアガと政敵のマイケル・マンリーの闘争にボブが巻き込まれた史実が、映画の軸のひとつだ。

ジョー・ヒッグスは温かみのある太い歌声でリズム&ブルース、スカ、ロックステディ、レゲエのどれを歌っても人気が高かった。ボブ、ピーター、バニーらと5歳くらいしか年が変わらなかったが、トレンチ・タウンで曲の作り方、音楽活動の方法を手ほどきしたのは彼である。1963年、ジョー・ヒッグスが彼らをスタジオ・ワンに連れて行ったところから、レゲエの歴史は大きく転換する。

 

リー“スクラッチ”ペリー/Lee“Scratch”Perry(1936-2021)

レゲエ史における重要度で、ボブ・マーリーと双璧を成すのがプロデューサーのリー・ペリーである。劇中に出てくるように、スタジオ・ワンでエンジニアを務めたのち、プロデューサーとしての才能を開花させる。

トリオとしてのザ・ウェイラーズの2作目『Soul Rebel』(1970)と3作目『Soul Revolution Part Ⅱ』(1971)は、アイランド・レコード時代とはちがうボブ・マーリーの魅力が詰まっている。ペリーひとりで研究本や映画が制作されるような奇才。熱心なファンとしてビースティ・ボーイズもいる。来日時に『笑っていいとも』に出演した。

Written By 池城 美菜子

___

映画情報

『ボブ・マーリー:ONE LOVE』

2024年5月17日日本劇場公開決定

© ユニバーサル ミュージック合同会社