『十角館の殺人』はエポックメイキングな作品だ 大学生たちの“苦い青春ドラマ”的な側面も

3月22日からHuluで独占配信されているHuluオリジナル『十角館の殺人』は、謎が謎を呼ぶミステリードラマだ。

舞台は1986年3月下旬の大分。K大学のミステリ研究会(以下、ミス研)に所属する大学生の男女は1週間の合宿のため、角島(つのじま)と呼ばれる孤島を訪れる。

角島には天才建築家の中村青司(仲村トオル)と妻の和枝、使用人夫妻の4人の他殺体が発見された謎の四重殺人が起きた青屋敷邸跡地と、中村が設計した十角館と呼ばれる奇妙な外観の館が存在した。

彼らは十角館で寝泊まりする予定だったが、建物のテーブルには何者かが用意した、第一の被害者、第二の被害者、第三の被害者、第四の被害者、最後の被害者、探偵、殺人犯人と書かれた7枚のプレートが置かれていた。

一方、本土ではかつてミス研に所属していた江南(かわみなみ)孝明(奥智哉)の元に、死んだはずの中村青司から手紙が届く。

「お前たちが殺した千織は、私の娘だった。」とだけ書かれた手紙を見て、同じミス研メンバーで半年前に亡くなった中村千織のことを思い返す。そして、中村千織の叔父・紅次郎(角田晃広)の元を訪れる。そこで江南は、紅次郎の友人の島田潔(青木崇高)と意気投合し、手紙の差出人の正体とその目的を知るために2人で調査を始める。

本作では孤島の角島にいる大学生らと、本土で江南と島田が事件の真相を追う2つの物語が同時進行で進んでいく。

本土パートでは、江南と島田が中村青司の関係者に話を聞くなどして、角島青屋敷・謎の四重殺人の真相を明らかにしようと動き回るミステリードラマが進行していく。一方、十角館では、誰が犯人かわからない中、次々と連続殺人が起こる。

視聴者を惹きつけるのは、次に何が起こるかわからない孤島パートで、ミス研の大学生たちが正体不明の犯人に次々と殺されていく展開と、本土で繰り広げられる江南と島田の軽妙なやりとりが交互に描かれている点にある。

孤島パートの不気味なムードを盛り上げるのが、十角館という奇妙な建物だ。

名前の通り建物自体が十角形で、中央のホールの周りを等脚台形の部屋が取り囲んでいる。異常にこだわりの強い中村青司によって設計された十角館は、灰皿やカップ、天窓に至るまで何から何まで十角形だ。

劇中では真上から十角館を撮影した鳥瞰映像が要所要所で挟み込まれるのだが、観れば観るほど不思議な建物で、事件のことがなければ一度泊まってみたいと思わせる魅力がある。

そんな孤島パートと本土パートの物語が同時に進み、物語の後半で真相が明らかになるというのが本作の構成である。

そのため、2つのミステリー小説を同時に読み進めているかのような面白さがあるのだが、もう一つの大きな特徴は、登場人物がミステリー小説に精通したキャラクターだということだろう。

ミステリ研究会のメンバー(望月歩、長濱ねる、今井悠貴、鈴木康介、小林大斗、米倉れいあ、瑠己也)は、有名推理作家にちなんだニックネームで呼ばれている。

普通の小説なら全員が名探偵と言ってもおかしくないミステリ研究会の面々だが、そんな彼らが何者かの罠にかかり、1人、また1人と殺されていく。

船が迎えに来るのは1週間後、本土と繋がる電話もないため警察に連絡することもできない。もちろん舞台は1986年なので、インターネットもスマートフォンもない。

そんな極限状態の中でミス研メンバーたちは正体不明の犯人に怯えながら、犯人が誰か推理を繰り広げる。仲間の犯行か、それとも外部の誰かによる犯行か、疑心暗鬼が広がっていく。

Huluオリジナル『十角館の殺人』は綾辻行人が1987年に発表した同名小説(講談社文庫)をドラマ化したものだ。この小説でデビューした綾辻は、新本格ミステリの旗手として後続の作家に大きな影響を与えた。

新本格ミステリとは、一種の古典回帰運動で、松本清張ら社会派ミステリの台頭によって、後退していたミステリの持つ「知的なゲーム」としての面白さを復活させる試みだった。新本格ミステリは不気味や洋館や嵐の山荘といった荒唐無稽な舞台をあえて選択し、極度にキャラクター化された名探偵や連続殺人犯といったフィクションの中でしか成立しない存在を積極的に登場させることで、閉じた密室の中でこそ成立する娯楽性を全面に打ち出した。その影響は西尾維新や綾辻の影響を公言しペンネームに辻の字を用いている辻村深月といったメフィスト賞系の作家にも及んでいる。

言うなればミステリを元ネタとしたミステリ読者のためのミステリ小説とでも言うような、ミステリオタクのための小説が『十角館の殺人』だった。

80年代後半のバブル景気が生み出したオタクカルチャーの豊かさから生まれたという意味では、アニメ制作会社・ガイナックスに所属する庵野秀明が監督した『トップをねらえ!』や『新世紀エヴァンゲリオン』といったロボットオタクが作ったSFロボットアニメと双璧であり、熱狂的なファンが作り手に回ったことで生まれた純度の高いオタク向けミステリが『十角館の殺人』だったといえるだろう。

そんな新本格ミステリのマニフェストとして象徴的に語られるのが、ドラマでは第一話の冒頭に登場する「ミステリとはあくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理のゲーム。それ以上でも以下でもない」という望月歩演じるエラリイの台詞だ。

彼は、事件の背後に現代社会の歪みが見え隠れする松本清張のような社会派ミステリの泥臭さを「やめてほしいね」と否定し、ミステリにふさわしいのは「名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック……絵空事で大いにけっこう。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。ただし、知的に、ね」とうそぶく。

彼の台詞は、これから自分が紡ぐ新しいミステリ小説とはこういうものだと作者が得意げに宣言しているようにも聞こえる。だが、望月の好演もあってか、80年代後半のバブル景気に浮かれている大学生の世間を知らない未熟さがドラマでは小説以上に強調されていると感じた。

登場人物が過度にキャラクター化され、殺人事件を見せるための駒として扱われることが多かったこともあってか、新本格ミステリは「人間が描けていない」と批判されることが多い。

記号的なニックネームで呼び合う本作の登場人物にもその批判は一部当てはまるが、生身の人間が演じていることもあってか、軽薄に舞っているように見える彼らが、実はミステリ研究会という狭い人間関係の中で嫉妬や劣等感といったネガティブな感情を膨らませて苛立っていることが、ドラマ化されたことで手に取るようにわかる。

知的なゲームとしての荒唐無稽なミステリを志向しているように見える本作だが、実はとても人間味のある大学生たちの苦い青春ドラマだったことが、ドラマ化されたことで明確になったのではないかと思う。

最後に、本作の映像化の打診は何度もあったそうだが、綾辻が「本作の要となるトリックをどうやって映像化するのか?」と質問しても、きちんとした答えを得られなかったため、映像化の話は毎回立ち消えとなっていたという。逆に言うと、今回映像化が実現したのは、この問題をクリアできたということだ。

この難題に対し、内片輝監督がどのようなやり方でクリアしたかは、本編で是非確認してほしいのだが、全貌がわかった後で、すぐに第一話から細部を見直すことができるのが、配信ドラマの利点である。複雑なミステリ小説と全話の細部をすぐにチェックできる配信ドラマの相性が良いことを証明できたという点においても、Huluオリジナル『十角館の殺人』はエポックメイキングな作品だ。

(文=成馬零一)

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