『伊集院静さんが好きすぎて』 足跡を辿って上野・浅草へ 心に沁みるおでんといい店の条件を知る

■伊集院さんの足跡をたどって

伊集院静さんがこの世を去って、数ヶ月が経った。いつかと願っていた、ご本人の言葉で叱ってもらうことは、もう叶わない。

その代わりに週末の夜になれば、伊集院さんが足を運んでいたお店に自然と足を運ぶことが増えていた。そこに行けば、どのようなことをそこで話していたのか? そのお店にはどんな人がいるのか? “伊集院静の幻影”と出逢えると思っているのかもしれない。

“大学の野球部を辞めて、下宿も決めずに東京のあちこちをうろうろしていた頃。浅草や上野へ行くと、なぜかしら気持ちが落ち着いた。”

伊集院さんの書籍『作家の贅沢すぎる時間 そこで出逢った店々と人々』(双葉文庫)など、さまざまに読んでいると、週末になればいつも浅草・上野界隈へ一杯がてらご飯に出かけていたことがわかってきた。上野は北の玄関口であり、東北、北関東、信越からの電車が駅に入ってくる。様々な人が住んでいるが、田舎から上京した人たちは大半が東北の人だったという。ひと昔前は、北の人々にとって東京=上野であった。

湯島『多古久』

最初に向かったのは、湯島・天神下にある多古久さん。伊集院さんが、日曜日の雨の日になると必ず顔を出していたおでん屋さんだ。目の前にいきなり現れる、大きなおでんのお鍋と、その出汁の匂い。その日は、寒かったことに加え、90歳を超える祖母が入院したという連絡があったこともあり。私自身、すこし心が弱っていたが、店内に入った瞬間、そのあたたかい湯気がやさしく包み込んでくれた。

この店には伊集院さんの直筆の色紙が額縁で飾られている。女将さんから「先生、一枚色紙を書いてくれない? 先生のだったら冥土の土産品に欲しいよ。」と頼まれ、書いたものだという。

女将さんに「伊集院静さんが好きで、このお店にきました」と言うと、とても嬉しそうな顔で、「ここに色紙あるから写真撮っていいですよ。」と初めての客の私にもそう言ってくださった。店員さんも、江戸っ子気質のチャキチャキとした、愛想の良いお姉さんで東京人なのにどこか関西人というか、こんなにも自然にコミュニケーションができる人がいるんだということに驚いた。

伊集院静さんの定位置は、カウンターの一番奥の席だった。その横の壁に、「腹」という字を横にした伊集院さんの字が飾られている。その字は、現女将の和子さんの母・誠子さんに宛てたものだそう。

「伊集院さんはお店にサインをすることをほとんどしないそうなんですけど、母がお願いしたら仙台から送ってくださったんです」と和子さんが教えてくれた。

和子さんの母・誠子さんが亡くなった時は、伊集院さんも葬儀に参列し、「毎年、母の命日にお線香を送ってくださった」という。伊集院さんは、このお店に飾られている1枚の写真がお気に入りだった。落語の名人、8代目桂文楽と古今亭志ん生が談笑しているもので、確かにこれは見とれてしまう魅力がある。近くに寄席があることもあって、志ん生はよくカウンターの隅で飲んでいた。身体が動かなくなってからも弟子におぶってもらい来たらしい。

いつもの定席で、あの声で、「酒、おくれ」と言う。先代のオヤジが常温のコップ酒を出す。それを美味そうに飲んだそうで、身体のこともあり、家族から酒は二杯までと決められていたが、二杯目を飲み終えると弟子にむかって「オイ、小便に行ってきな」と言い放ち、弟子が厠に消えると、指を一本立てる。オヤジは黙って三杯目を出す。それをキュッーと
飲み干し、弟子が戻ると、ボチボチ行くか、となる。イイ話である。

イイ話があった場所、イイ人がいた場所(空間)を、伊集院さんは遺さないといけないと考え、通っていたように思えてならない。

浅草『おかめ』

もう一軒は、観音通り(裏浅草)にある“酒処・食い処 おかめ”さん。伊集院さんのエッセイの中に浅草のおでんといえばここと書かれていたので、休日に伺ってみた。お店に向かう前に電話を入れると、電話越しでも女将さんの気さくな人柄が分かる。

「お店までの行き方わかりますか? 分からなかったら言ってくださいね」

この気遣いにこのお店は間違いないと確信した。暖簾をくぐると、おでん屋さんの出汁の匂いで溢れかえっている。カウンターと上り座敷があり、店内には綺麗に花が生けられている。店に入ると、店名の“おかめ”と言わんばかりの笑顔で迎えてくださる、女将さん。

「来る前に、一回電話を入れて下さって。今時珍しいのよ。どんな人がくるのかって、常連さんと話していたのよ。寒いでしょ、座って座って」

女将の他に、男性の常連さんがひとりカウンターで飲んでいる。この方も素敵で、実家のテーブルで父親と晩酌しているかのような空気感の方だった。そして、そして厨房内で一緒に働ているのは、女将さんのお姉さんだった。話を聞くと、この女将も東北の生まれの方だった。

「若いのに、どうして、このお店に辿り着いたの?」

「実は、伊集院静さんの本の中にこのお店が紹介されていました」

そう話すと「伊集院さん、コロナの前はお見えになっていたわよ。あなたの今座っている席にいつも座っておられたわ」

湯島の多古久さんのときもそうだったが、伊集院さんは、カウンターの端で飲むのが好きだったことがわかる。

「このお店のこと、どんなことが書いてあったの?」

女将さんが興味深そうに聞いてきた。持参していた伊集院さんの本を女将に見せた。

母娘の女将二人が切り盛りしているが、母女将はきっぷがイイ。若女将は楚々としていていかにも下町の美人である。

その文章を見せると、女将さんは娘さんの話をしてくださった。店内に入ったときから、その姿がないのが少し気がかりだった。実は、数年前に娘さんは亡くなったという。娘さんとの時間は女将さんにとってかけがえのないものだった。話を聞いていると、そのシーンごとの光景が目の前に浮かんできた。お通夜には、想像を超す人たちが娘さんに会いに参列し、とても驚き「娘は本当に多くの人に愛されていたんだ」と気付いたという。

はじめて会った私に、亡くなった娘さんのお話をしてくださっただけでなく、仕事が一段すると、私の近くまで来てくれて、目を見て話を聞いてくださる。お店を出るときに、「これは、ご縁だから、また疲れたりしたら飲みにきなさい」そう言ってお店の外まで見送ってくださった。

店を出て思わず、親友であり人生の先輩でタクシー運転手の左右さんに電話をした。左右さんから「澤井君のこんな声のトーン、はじめて聞いた」と言われる。

多古久にしても、おかめにしても……“お金を落とすお客さんと、料理を作る店員さん”という淡白な関係ではなく、“人と人として付き合っているお店”=伊集院さんの贔屓店だったのだ。聖地巡礼をすることで、伊集院さんの言っていたこと言葉が沁みる。

“美味い、不味いじゃない。” 行き着くところは「味より人」である。

その意味を理解するまでは到底及ばないが、少しだけ分かった気がした。

“人がいいところは結局、味がいい”

「東京は西と違って人や街が冷たい」とよく言う人がいる。私は西から東京へやってきたが、決してそんなことはない。昔から変わらない人情あるお店は、まだ東京には残っている。私が生まれた平成人たちにとっての東京の街のイメージといえば、渋谷、恵比寿、六本木などのキラキラした街になってしまう。けど、本当の東京の人情ある街は、実はここ(上野・浅草)にあるのかもしれない。

「人間らしくありたいなら、東京という街をもっと好きになってもいいんじゃないか?」

叱る言葉じゃないけれど、伊集院静さんの声が聞こえた気がした。

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