ヒップホップとお引越し:引っ越しが紡ぎ出す運命

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ヒップホップやR&Bなどを専門に扱う雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』改めウェブサイト『bmr』を経て、現在は音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベントなど幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第50回。

今回は、地元のことでライムするのが基本のヒップホップにおいて、かなりの大ごとであろう引っ越しについて。

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シベリアの先住民バンドであるOtyken(オトゥケン)とイグジビットの共演が話題になっている。Otykenの既存曲「Belief」にイグジビットのラップを追加したリミックス。新規MVもあるが、残念ながらイグジビットのパートは別撮りだ。確かにアメリカ人ラッパーがこのためだけにシベリアまで飛ぶのは大ごとだろうから仕方ない。

しかし北極圏フィーリング演出のため(だろう)、雪景色の中で撮影した努力は素直に受け止めたいところだ。背景に一瞬映るのはWinnipegの文字。ディーン・フジオカも出ていたドラマ『荒野のピンカートン探偵社』(2014年)のロケ地であるカナダのマニトバ州ウィニペグだ。じゅうぶん寒い。

「ロサンゼルスの人なのに大変やなあ」と言いかけて、ふと思い出した。実はイグジビット、ミシガン州デトロイトの出身なのである! カナダとの国境に近い北緯42度地帯。北緯35度あたりに住む当方から見ると、じゅうぶん北国だ。

そんなイグジビットは、ニューメキシコ州アルバカーキを経てロサンゼルスに引っ越した直後、14歳(80年代末)でラップを始めた。だが、もしそのままデトロイトに留まっていたら、彼のキャリアはどうなっていただろう?

ブルックリン生まれで元々はソウル・ミュージック大好きっ子だったのに、親の都合でロサンゼルスに引っ越して70年代西海岸のロックな環境と化学反応を起こした結果、音楽の嗜好が変わったレニー・クラヴィッツの例もある。

転居・移住・引っ越しというものがアーティストの音楽性やキャリアに与える影響は決して小さくないのだ。特に、「地元のことでライムする」のが基本のヒップホップにおいては、かなりの大ごとなのではなかろうか。

というわけで、引っ越しの季節である春にお届けする、ヒップホップ引っ越し考である。

 

イグジビットのケース

「デトロイト」→「アルバカーキ」→「ロサンゼルス」

先に触れた通りではあるが、アルバカーキはさておき「デトロイト」→「ロサンゼルス」という移住は、まるで自動車文化の流れをなぞるようなルートと言えまいか。

「Los Angeles」をもじって「Lost Angels」というタトゥーまで背中に入れているイグジビットは、ラッパーとしては完全に西海岸が地元である。だが、自動車改造番組『ピンプ・マイ・ライド ~車改造大作戦!~』の司会という仕事が舞い込んだのは、引っ越し歴と無関係ではなかろう。同番組のいくつかのエピソードでは「この車はデトロイトが生んだ名産品だ。俺と同じように」と語ったりもしている。

 

2パックのケース

「ニューヨーク」→「ボルティモア」→「オークランド」→「ロサンゼルス」

2パックは当初「MC New York」と名乗っていた。なんと単細胞な、そして、なんと恥ずかしい名前だろう!しかしこのMC名は、トゥパック・シャクールその人の複雑で重層的な魅力を、恥ずかしさと共に教えてくれるものでもある。

母アフェニ・シャクールは1960年代末にブラックパンサー党のニューヨーク・ハーレム支部でリーダーを務めていた人物だ。これだけ有名になってしまった左翼の家庭というのはなかなか大変である。カネはないわ、警察に目をつけられるわ。困窮してメリーランド州ボルティモアに引っ越したのが1984年、2パックは13歳。同市でアート系の高校に入り、演技を学ぶ同級生ジェイダ・ピンケットと親友になったのは有名な話だ。2パック自身もシェイクスピアやバレエを学び、アメリカ共産党の青年部的なYoung Communist League USAで活動していた。

が、家庭がさらに困窮したため、カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリアのマリンシティに転居。ブラックパンサー党幹部の息子が、巡り巡ってブラックパンサー党のお膝元(正確にはオークランドだが)に戻ってきたわけで、ある意味でルーツ回帰である。そして、彼のキャリアが形成されたのは、この多文化的なベイエリアにおいてだ。

同地でポエトリー・ワークショップに参加、その詩才で注目された2パック。詩の先生がマネージャーとなって、やがて地元のグループ「デジタル・アンダーグラウンド」に加入することとなった。引っ越し歴がなければそんなチャンスもなかったろうし、さまざまな環境を経験してきたからこそ、ボーダーを超えて人の心をつかむ普遍的なラッパーとなり得たのではないか。

ではロサンゼルス生活は? 晩年のみで、長く見積もって3年。しかもその間に刑務所暮らしも経験しているため、実際の居住歴は極めて短い。ほぼデス・ロウ時代のみのLAライフと思われる。

 

Kuruptのケース

「フィラデルフィア」→「ロサンゼルス」

静かな殺気を込めた「ヌーヨーヌーヨー、スィリオヂュリームズ」のフレーズで知られる「New York, New York」はドッグ・パウンドの代表曲の一つ。そして、ヒップホップ界の東西抗争時代を象徴する曲である。

名義としてはTha Dogg Pound featuring Snoop Doggy Doggなのだが、実際にはKuruptとスヌープの声しか聞こえない。つまり、デュオとしてのドッグ・パウンドを構成する片割れ、ダズ・ディリンジャーはMVにこそ出てくるが、録音に参加していないようなのだ。そしてスヌープは基本的にフック担当なので、全ヴァースを通じてラップするのはKuruptである。

そんなKuruptが、実は東海岸出身! そう、彼はフィラデルフィアの生まれであり、16歳まで同市に住んでいた。ということは、彼の自我が形成されたのはイーストコーストと言っていいだろう。なのに、東西抗争における西側の急先鋒を任されることになるとは。引っ越しが紡ぎ出す運命とは、かくも皮肉なものなのである……。

 

アイス・Tのケース

「ニュージャージー」→「ロサンゼルス」

この元祖ウェストコースト・ギャングスタ・ラッパーですら、東海岸生まれなのだ。両親が相次いで心臓発作で亡くなり、13歳の時に叔母を頼って移り住んだ先が、ロサンゼルスのサウスセントラル。そこでギャングスタ・ラップに開眼……という展開なら分かりやすいのだが、いかんせんアイス・Tことトレイシー・マロウは1958年生まれ。彼が13歳の頃には、まだヒップホップがない! レコーディング作品としてはもちろん、ストリート・カルチャーとしても存在しない!

そもそも叔母宅があったのは、サウスセントラル内のお金持ち地区、View Park-Windsor Hillsなのだ。しかし、叔母の息子(トレイシー少年のイトコ)がハードなロック愛好家であり、トレイシーはその影響でヘヴィメタルに関心を抱くようになり……後年、ボディ・カウントに至る。

ではヒップホップに至った道筋は? 自分同様にロサンゼルスへと流れ着いた元ピンプの作家アイスバーグ・スリムの著作を愛読するあまり暗記してしまい、その一節を暗唱してみせたトレイシー。すると友人が曰く、「もっとアイス(バーグ・スリム)を聴かせてくれ、T(トレイシー)」。こうして「アイス・T」が誕生するのだ。

 

追悼編:ボスのケース

「デトロイト」→「オークランド」→「ロサンゼルス」→「テキサス」

3月に伝えられた訃報に54歳説と46歳説があり、我々を混乱させたのがデフ・ジャム初の女性ラッパー、ボス(Bo$$)。その唯一のスタジオ・アルバムである1993年作『Born Gangstaz』も、それはそれで「デフ・ジャムなのに、このウェッサイ風味ジャケット?」「え、出身はデトロイト?」と、リスナーたちを混乱させたものだ。

「デトロイトで生まれ育ったボスは、高校卒業後にカリフォルニアに移住。オークランドで数年過ごした後、ロサンゼルスに移り住んだ」と聞くが、別の説では「高校卒業後にロサンゼルスへと移住」となっており、やはり読む者を混乱させる。

興味深いのは彼女の出自だ。デトロイト市内でも富裕層が住むウェストサイドで育ち、私立のカトリック学校でバレエやピアノやタップダンスを学んだというから、かなりの深窓感! しかも本人は隠しておらず、アルバム中のスキットはそれをネタにしたもの。そもそも『Born Gangstaz』というタイトル自体、自分を笑いのめす趣旨だったのかもしれない。

「オークランド経由説」によれば同市の大学に通った後、ロサンゼルスに移ってヒップホップ・シーンに身を投じたらしい。『Born Gangstaz』後はテキサスに移り、同地でセカンド・アルバムを作り始めるものの、デフ・ジャムから契約を打ち切られる。晩年は故郷デトロイトのすぐ近く、ミシガン州サウスフィールドに戻っており、市内の病院で亡くなった。合掌。

Written By 丸屋九兵衛

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