『オッペンハイマー』第二次世界大戦末期のヤルタ会談から原爆投下までの歴史

クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』は、第二次世界大戦中に原子爆弾を開発したアメリカの理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた作品です。原爆の開発者を題材にしているため、被爆国の日本でも大きな関心を集め、3月末に公開されてから現在も映画館では満席となっています。

ところで、なぜ日本に原爆がそもそも落とされたのでしょうか。そこには不運にも、あるアメリカ大統領の死が関係しています。この死が存在しなければ、広島・長崎にも原爆が落ちることはなく、第二次世界大戦後の冷戦も起きず、現代史が大きく変わった可能性があります。

今回の記事では、この映画を理解するうえでも知っておきたい、第二次世界大戦の末期に開催されたヤルタ会談から、原爆投下までの歴史を見ていきたいと思います。

〇【本予告】『オッペンハイマー』3月29日(金)、全国ロードショー

第二次世界大戦は「連合国」と「枢軸国」の戦い

資本主義国(アメリカ・イギリス・フランス)と、社会主義(共産主義)のソビエト連邦によって連合国は構成されていました。一方の枢軸国(ファシズム)は、ドイツ・イタリア・日本などの国々からなり、全体主義的な政治思想を掲げ、個人の自由を制限するという特徴がありました。

第二次世界大戦はファシズムの拡大に対抗するために、資本家と労働者が手を取り合って立ち向かった戦いとも言えます。連合国は思想の違いを超えて、共通の敵であるファシズムに立ち向かったのです。

第二次世界大戦の末期、ドイツの首都ベルリンが陥落寸前となり、残るのは日本だけです。連合国の勝利は目前でした。

しかし、連合国に勝利の雰囲気がありません。資本主義と社会主義という“水と油”のような経済システムを持つ国々が協力していたため、ファシズムとの戦いが終わったあと、次の敵は共産主義という予感が漂っていたのです。

第二次世界大戦の勝利が目前に迫るなか、連合国の首脳たちはクリミア半島のヤルタに集まります。イギリスからはチャーチル首相、アメリカからはフランクリン・ローズヴェルト大統領、ソビエト連邦(ソ連)からはスターリンが参加しました。

会議の目的は、戦争の勝者による世界の再分割でした。例えば朝鮮半島については、北緯38度線を境として北部をソ連が、南部をアメリカが占領することが確認されました。現在の朝鮮半島は、北部が北朝鮮(共産主義)で、南部が韓国(資本主義)なのは、ヤルタ会談にさかのぼります。

しかし、勝者の集まりにも関わらず、会議の雰囲気は重苦しく、現場の空気は張り詰めていました。その理由は「第二戦線問題」にあります。

▲ウィンストン・チャーチル 出典:カナダ国立図書館・文書館 / Wikimedia Commons

第二戦線問題とチャーチルの思惑

第二戦線問題とは、ソ連が求めた救援に対して、アメリカとイギリスが反応しなかったことを意味します。

ドイツとソ連とのあいだで争われた「東部戦線(第一戦線)」では、両国が約3000万人近くの死者を出すほどの激戦が繰り広げられました。第一戦線で甚大な被害を受けたソ連は、すでに男性の20%が死亡しています。ソ連のスターリンは、連合国(アメリカとイギリス)に救援を要請しました。

アメリカとイギリスに、ドイツの西側に「第二戦線」を形成し、後方から攻撃することを求めたのです。ドイツの右側(第一戦線)からはソ連が攻めて、左側(第二戦線)からアメリカとイギリスが攻める。そうすればドイツを挟み撃ちにできるということです。しかし、アメリカとイギリスからの救援は遅れ、ソ連は長期間にわたって単独でドイツと戦い続けることを余儀なくされました。

その頃、フランスはドイツに占領されており、アメリカは日本と太平洋で戦っていました。しかし、イギリスに関しては、救援できない大きな理由はありませんでした。当時のイギリス首相だったチャーチルの本心は、ファシズムと共産主義の共倒れです。第二次世界大戦後に共産主義との対立が必ず生じると、チャーチルは予想していました。そのため、第二次世界大戦中にソ連の力をできる限り削ろうと計画していたのです。

ソ連からの度重なる救援要請に対して、イギリスとアメリカが行動に移さないことにスターリンは怒りを感じていました。両国が要請に応えたのは、1944年6月6日に始まった「ノルマンディー上陸作戦」でしたが、時すでに遅しでした。

フランス北西部に上陸したノルマンディー上陸作戦は、連合軍による史上最大の作戦と言われています。しかしその目的は、ソ連に対して連合国も戦っていることをアピールするためだったのです。

上陸した部隊の進撃速度は遅く、アメリカとイギリスは無理をせず、慎重な戦い方を選びました。ドイツ軍約40万に対して、米英は150万の兵力を投入したにも関わらず、ノルマンディー地方の制圧には2か月以上の時間を要しています。

ノルマンディー上陸後、オランダでのパラシュート作戦で1万5000人の損害を出すと、アメリカとイギリスはすぐに進撃を停止しました。アメリカとイギリスの目的は、あくまでもソ連の消耗であったため、無理をせずにゆっくりと戦いを進めていたのです。

現代史に大きな影響を与えたローズヴェルトの死

第二次世界大戦中、ソ連は約2000万人もの死者を出しながらも、1945年5月8日にヨーロッパ戦線を終結させました。

独ソ戦が始まった1941年6月22日から、ヒトラーの首相官邸に突入するまで、ソ連は約4年間も戦い続けました。その一方、アメリカとイギリスの上陸部隊が、ドイツ軍と戦った期間は1年にも満たなかったのです。

上記のような背景によって、ヤルタ会談は最悪な雰囲気で始まりました。当然ながら、会談ではイギリスとソ連が対立します。しかしアメリカのローズヴェルト大統領が仲介を取ることで、なんとか話をまとめることができました。

意外かもしれませんが、この時点においてアメリカとソ連は比較的良好な関係にありました。ローズヴェルト大統領は社会主義に近い思想を持っていたからです。1933年から1939年にかけて実施され、ローズヴェルトが主導した「ニューディール政策」には、失業対策や労働者保護などを目的とした社会主義の要素が含まれています。

ローズヴェルト大統領は、イギリス(資本主義)とソ連(社会主義)のあいだに入り、仲を取り持つことができたのです。第二次世界大戦後も、ローズヴェルトは資本主義と共産主義が共存することを願っていました。しかし、ローズヴェルト大統領にとって、ヤルタ会談は最後の仕事となってしまいました。

▲フランクリン・ローズヴェルト 出典:Leon Perskie / Wikimedia Commons

1945年4月、アメリカ軍が沖縄に上陸した直後、ローズヴェルト大統領は死去します。そして副大統領だったトルーマンが大統領に昇格しました。しかし、資本主義と共産主義の共存を目指したローズヴェルトの思いを、トルーマンは受け継ぎませんでした。

高卒で大統領に上り詰めた苦労人・トルーマンは、まさに資本主義的な考えを持つ人物でした。左派政党である民主党のなかでも、ローズヴェルトはさらに左寄りの人物でしたが、党内のバランスを取るため右派のトルーマンを副大統領に起用していたのです。

トルーマンの大統領就任は、ソ連に対する態度を一変させることになりました。トルーマンが大統領に就任した直後に核開発が完成し、トルーマンは強気になります。敗戦濃厚の日本に対する広島と長崎への原爆投下は、ソ連など共産主義国に対する脅しでもあったのです。

ローズヴェルトの死と原爆投下により、資本主義と共産主義の対立が一気に深まっていきます。原爆投下は第二次世界大戦の終わりではなく、冷戦の幕開けだったのです。

イギリスのチャーチルは、ファシズムと共産主義の共倒れを狙い、スターリンを怒らせましたが、ローズヴェルトの仲介により難を逃れました。しかしローズヴェルトの死、そして大統領になったトルーマンによる核兵器の実戦使用(原爆投下)によって、ソ連の資本主義国に対する不信感は頂点に達しました。

トルーマンによる広島・長崎への原爆投下は、激動の現代史をスタートさせる引き金だったのです。

科学者オッペンハイマーの苦悩

原子爆弾の開発を主導したロバート・オッペンハイマーですが、この映画では俳優キリアン・マーフィが演じています。広島と長崎への原爆投下後、自らが生み出した核兵器の非人道性と破壊力に深く心を痛めました。作中でも原爆投下後に幻覚に苦しむ様子が描かれていました。

今回の映画では、オッペンハイマーが反核の立場を明確に示す描写はありません。しかし、第二次世界大戦後、オッペンハイマーは核兵器廃絶を訴えるようになりました。核兵器の開発競争を防ぐため、核兵器を国際的な管理下に置くことを提案したのです。ところが、冷戦の進展に伴い、アメリカ国内で反共産主義が高まります。1954年、オッペンハイマーは共産主義者のレッテルを貼られ、公職を追われることになりました。

それでもオッペンハイマーは、核兵器の脅威について警鐘を鳴らし続けたのです。彼の思想と反核運動は「科学者の社会的責任」という普遍的なテーマを私たちに考えさせてくれます。

オッペンハイマーの生涯は、科学技術の発展が人類に多大な恩恵をもたらす一方で、場合によっては取り返しのつかない悲劇を生み出すことを教えてくれます。核兵器のない平和な世界を築くために、一人ひとりが声を上げ続けることの大切さを示唆しているのではないでしょうか。

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