ルーマニアの首都ブカレストで優勝チーム取材【バルセロナを破ったサッカークラブのある独裁者の街へ】(1)

盛時には「小さなパリ」と呼ばれた美しいブカレストの街並みも、1986年は「物不足」「エネルギー不足」で閑散としていた。©Y.Osumi

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、独裁者が健在だった頃…。

■初めての「東ヨーロッパ」取材へ

『サッカー・マガジン』の仕事を離れた1982年から1988年なかばまでの私の仕事は、主として「トヨタカップ」のための取材だった。『サッカー・マガジン』の私の前の編集長だったH氏が独立し、トヨタカップやキリンカップなど、電通が企画したサッカーの国際大会のために情報を集めたり、大会のプログラム・マガジンを制作する会社を立ち上げた。その会社に誘われ、約5年間、欧州や南米の有名クラブやサッカー大国の取材をするのが仕事だったのだから、こんな幸運なことはなかった。

世界的な名選手や名監督たちへのインタビュー取材、欧州や南米のチャンピオンクラブを、それぞれ10日間かけてのじっくりとした取材。成功するクラブとはどんなクラブなのか、そのためにどんな工夫や努力をしてくれるのか――。その観察は、後にフリーランスとなって「サッカージャーナリスト」を名乗るに当たって、私の最も大きな財産となった。

だが10回を超すトヨタカップ出場チームの取材の中で、最も奇妙だったのは、なんといっても1986年9月のステアウア・ブカレスト(現在の名称は「FCBC」)の訪問だった。

ステアウアは「欧州の強豪」と言われるクラブではない。当時もそうではなかった。しかし、1985/86シーズンの欧州チャンピオンズカップでは、1回戦でバイル(デンマーク)、2回戦でホンベド(ハンガリー)、準々決勝でクーシシ・ラハチ(フィンランド)、そして準決勝ではアンデルレヒト(ベルギー)を下し、決勝戦に進出してしまったのである。各国からリーグ・チャンピオン1クラブしか出場できず、1回戦からノックアウト方式の大会だったから起こったことかもしれない。

決勝戦の相手はスペインのFCバルセロナ。試合会場はスペインのセビージャ。誰しもバルセロナの圧勝と考えた。しかし、ステアウアは圧倒的に試合を支配されながらも驚異的な粘りで失点を防ぎ、延長まで戦って0-0。PK戦ではGKヘルムート・ドゥカダムが相手の2本のキックを止め、2-0で勝って優勝してしまったのである。

というわけで、1986年9月11日、私はルーマニアの首都ブカレストの取材に出発した。もちろん、私にとっては、初めての「東ヨーロッパ」への取材だった。

■すべてが監視下「電話は盗聴、郵便物も検閲」

2022年2月にロシアがウクライナへの侵攻を開始してから、世界は再び「東西分裂」の具体的な危機に立たされているが、その前の30年間は、近代の世界の歴史では希有な「平和」の期間だった。「ソビエト連邦」の支配下に築かれていた強固な「東欧共産圏」のタガがゆるみ、一挙に東欧各国で「革命」が起こったのが1989年。11月9日に「ベルリンの壁」が打ち壊されるという象徴的な出来事があり、ルーマニアでも1965年から続いていたニコラエ・チャウシェスクの独裁体制が12月17日に打倒されて民主的な国家の建設が始まった。

だが、私が訪れた1986年9月、チャウチェスクの独裁体制は堅固で、人々は、その抑圧下にあった。日常生活のすべてが監視下におかれ、電話は盗聴され、郵便物も当然、検閲されていた。そして、それ以上に深刻だったのが、エネルギーや食料の危機だった。市内に商店はあっても商品はなく、たまに店頭にパンが出ると長い行列ができ、あっという間に売り切れた。

共産圏の都市の例にもれず、ブカレストでも暖房や給湯は「地域供給」されていた。地域ごとに巨大なボイラーを動かし、街中に給油管を張り巡らせてお湯を配給していたのだ。だが、極端な外貨不足で燃料が不足し、給湯は週に1回、数時間ほど。ブカレストに駐在していた日本人の商社マンによると、「お湯が出た」という電話が家庭から学校にくると、子どもは学業を放り出して帰宅し、父親も仕事などしている場合ではないと帰宅して、1週間ぶりの風呂に入るのだという。

通常でも氷点下5度、ひどいときには氷点下20度、30度ということもあるブカレストの冬。暖房がないため、人びとは室内でも厚いオーバーコートを着て過ごし、夜ベッドに入る前に何よりも気をつけなければならなかったのは、牛乳を冷蔵庫に入れておくことだったという。冷蔵庫の中は4度程度に保たれている。しかし、そこに入れ忘れると、凍って分離し、飲めないものになってしまうというのだ。

■悲惨な「物不足」の状況に舌を巻いた

そんなブカレストに、私と「相棒」のカイ・サワベ・カメラマンはやってきた。秋の気配は濃厚だったが、まだ日中は暖かく、街路樹が美しい季節だった。私は成田から「西ドイツ」のフランクフルトに飛び、そこからオーストリアのウィーン経由でブカレストに入った。デュッセルドルフに住んでいたサワベ・カメラマンとは、ウィーンの空港で落ち合った。

私たちの滞在先は、クラブから指定された「ホテル・ブクレスティ」だった。都心に位置し、歴史ある重厚な建物で、東京で言えば「帝国ホテル」に当たるらしい。荷物を部屋に放り込むと、さっそく私たちは町の散歩に出かけた。そして伝え聞いた以上に悲惨な「物不足」の状況に舌を巻いた。

そろそろホテルに戻ろうと歩いていたとき、目の前に1台の車が停まって、中から東洋人らしき人が降りてきた。きちんとネクタイを締めた姿は、日本人のビジネスマンそのものだった。声をかけると、やはり商社マンで、目の前のビルの2階にオフィスがあるから寄りませんかと誘われ、喜んで従った。

そこでルーマニアという国が置かれた状況、ブカレストという町など、貴重な話をたくさん聞くことができた。

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