【SNS特報班・防災】西日本新聞社 福岡県うきは市の「大水害記念之碑」

1953年6月の豪雨被害が刻まれた大水害記念之碑。散歩中の男性は「猛烈な雨だったのを覚えている」=福岡県うきは市

■碑文を基に啓発冊子

 歩いては止まり、スマートフォンの画面と辺りの景色を見比べた。3月中旬、国土地理院による自然災害伝承碑ホームページ(HP)の地図を頼りに、福岡県うきは市の「大水害記念之碑」を探したが、なかなか見つからない。地図は筑後川のほとりにある果樹園、田畑、荒れ地一帯を示している。

 ブドウ畑の手入れをしていた男性(72)に声をかけた。「その林の先にある。1歳だった私も生き残りの一人たい」。突然の告白に驚き、〈昭和28年、豪雨で全9戸が瞬時に流失・全半壊し、死者6人の大惨事となった〉と紹介するHPの情報を伝えてみた。

 「その通り。この畑が自宅の跡。家族全員で屋根に上ったら、家はそのまま濁流に押し流された。岸辺に近づき、おやじが私を陸地の人に放り投げて助かったらしい」。川面から高低差のない周囲を見渡すと、当時の鬼気迫る状況が浮かぶ。集落は今はない。毎年12月、石碑の清掃のために元住民らが集うのだという。

 うきは市に残る伝承碑は七つで県内最多。訳を聞こうと、市教育委員会文化財保護係を訪ねた。学芸員の大津諒太さん(29)と重岡菜穂さん(25)が「北に筑後川、南は耳納(みのう)山地と挟まれた豊かな地である一方、時に牙をむいた歴史がある」と説明してくれた。

 市は2年前までに、碑文や1720年に耳納山地で起きた土石流を記録した古文書「壊山(くえやま)物語」を基に啓発冊子を2種類作成した。全戸に配布し、HPで公開している。10年ほど前に石碑を個人的に調べ、冊子作りの礎にした元消防士の井浦憲剛さん(73)は「市町村が伝承碑を現代に活用した例は少ない」と話す。

 「30人のうち28人は死骸知れ申さず(身元が分からず)2人は行方知れず…」。この日の夜に市内であった古文書講座では、住民ら10人が息を合わせて壊山物語の原文を朗読していた。

 当時の村ごとに被災状況が記され、3~6メートルの土砂が堆積した情景の他、〈石の直撃を受けて首がなくなったわが子を狂ったように介抱する母親〉など民衆の描写が多い。

 受講生たちは物語を身近な教訓として広めようと、現代語訳して出版した。講師の佐々木隆良さん(66)は「災害は忘れた頃にやってくると後世に警告するため、先人は強烈な事実も書き連ねたのだろう。過去との対話は将来の街づくりに生かせるはずだ」と述べた。

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