原発事故後初の運動会で奇跡の再会【バルセロナを破ったサッカークラブのある独裁者の街へ】(2)

盛時には「小さなパリ」と呼ばれた美しいブカレストの街並みも、1986年は「秘密警察」の暗躍などもあって寂れていた。©Y.Osumi

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、独裁者が健在だった頃…。

■全国民を恐怖に陥れる「秘密警察」

ルーマニアは「ローマ人の国」を意味し、言葉もスラブ系ではなく、ラテン語から発展したものが使われている。古代ローマからローマ人が支配してきた「ローマの末裔(まつえい)」というのがこの国の誇りだが、現在の住民の大半はスラブ系と言われている。

第二次世界大戦までは「王国」だった。しかし戦後、ソ連に圧力をかけられ、1947年に共産主義の「人民政府」が樹立された。強大な軍事力を背景に東欧の国々を「衛星国」としたソ連は、それぞれの国に役割を与え、ソ連に奉仕させる形をとった。たとえば東ドイツでは、重工業が国家事業として進められ、ルーマニアは「農業国」とされた。

1965年に指導者の地位についたチャウチェスクは「ソ連からの自立」を望んだ。そして当時豊富に産出した石油を生かし、独自に工業化への転換を図った。同時に、西ドイツなど「西側」の国々にも急接近した。しかし10年もしないうちに資金不足や油田・ガス田の枯渇が重なり、工業を守るために一転して「エネルギー輸入」に頼ることになる。輸入先はソ連である。その支払いは「ドル」建てで行われ、ルーマニアは一挙にソ連に対して巨額の負債を負うことになるのである。

「工業化」が進んでもルーマニアの農業は生産力が高く、なかでも野菜は、冬でも豊富に生産できる「温室」が整備されていたため、西ドイツなどに輸出され、多額のドルをかせいでいた。だが、それは右から左へとソ連に流れていく。そうして、本来なら豊かであるはずの国民は、慢性的な「物不足」「食料不足」「エネルギー不足」に苦しめられるのである。人々の不満を政権の危機に結びつかせないために独裁者が考えた唯一の方法、それが「恐怖政治」だった。

人びとは日常的に監視され、検閲され、少しでも「反政府的」な動きがあれば、容赦なく逮捕された。独裁者チャウシェスクは、権力の座についてから5年間ほどはルーマニアの「独立」を求め、自由な雰囲気を許し、人気も高かった。しかし1970年代に入ってから「独裁」の色を濃くし、厳格な「国家主義」で国民を抑圧した。ソ連の「KGB」を模した秘密警察「セクリターテ」は、全国民を恐怖に陥れていた。1986年9月は、そうした時代の真っただ中だったのである。

■事故後初めての「日本人学校の運動会」

「明日、日本人学校の運動会があるので来ませんか」

重要な話の数々に礼を言い、帰ろうとした私たちに、日本人商社マンが思いがけないことを言った。翌日は昼過ぎにステアウアのクラブハウスを訪ねる予定になっている。私はためらったが、商社マンの次の言葉を聞いて迷わず「行きます」と応えた。

「実は、子どもたちは、半年以上ぶりに外で遊ぶんです」

この年の4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国(当時)のチェルノブイリ(現在はチェノービリと表記される)で恐ろしい原発事故が起こり、全欧州を恐怖に陥れた。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の10倍規模という大惨事である。ブカレストはチェルノブイリの南南西約820キロ。東京から下関(山口県)あたりまでの距離である。しかし、子どもたちは極力外出を禁止された。その事故後初めて、日本人学校の生徒たちが外で走り、遊ぶというのだ。

やや寝坊してしまった私たちが教えられた市営のグラウンドに到着すると、運動会はもう真っ盛りだった。一時は100人を超していた日本人学校の生徒も、ルーマニアとの貿易(日本は鉄鋼を輸入し、工場プラントなどを輸出していた)が年々縮小し、このころには20人あまりとなっていた。しかし、父兄もそろって参加し、元気な歓声が飛んでいた。

■父親レースで12年ぶりの「奇跡の再会」

「父親レース」を見ていて、私はひとりの父親に目を奪われた。大学時代に同じクラスだったIさんにそっくりだったのだ。大柄で体をそらせて走る姿に見覚えがあった。前日私たちを誘ってくれた商社マンに聞くと、やはりIさんだった。

同じクラスの新入学生同士でも、彼ははるかに「大人」の雰囲気を持っていた。当然だった。高校を卒業すると学資をためるために数年間を自衛隊で過ごし、浪人もして、ようやく大学に進学したという苦労人だったのである。当時の私は、小学生同然だった。18歳とはいえ社会など知らず、サッカーのことばかり考えていた。しかしIさんは、そんな私に落ち着いた口調で人生のさまざまなことを語り、教えてくれた。

大学卒業から12年ぶりのことだった。しかし、Iさんも私を思い出し、自宅にも誘ってくれた。日本から遠く離れたブカレストで大学時代の同級生に会うなんて、そして、それが日本人ビジネスマンの軽いひと言に乗ったのがきっかけとは、私は人生の不思議さを思った。

© 株式会社双葉社