【社説】水俣病被害者に大臣謝罪 社会弱者の声、真剣に聴け

 環境行政の原点である公害被害への国の姿勢が厳しく問い直されていよう。

 水俣病が公式確認されて68年となった今月1日、熊本県水俣市で行われた伊藤信太郎環境相と患者・被害者団体との懇談会で起きた事態の波紋は、広がるばかりである。

 発言した2人について、環境省職員がマイクの音声を一方的に切るなどして制止したからだ。時間を3分とあらかじめ設定し、それをオーバーしたという理由である。これまでも同じ運営方法だったというが、痛みに苦しんで亡くなった妻の記憶を語る途中で遮られた出席者の気持ちは、察するに余りある。

 人道的にも許されない暴挙であり、言論封じとして批判を浴びたのも当然だろう。あいまいな釈明をした環境省も非を認め、きのう担当室長を謝罪に差し向けたのに続いて大臣自らが水俣入りして「深く反省している」と当事者に謝罪した。岸田政権へのさらなるダメージを避けたい思惑があることも想像できる。

 伊藤氏は事務次官らを厳重注意としたが、事務方だけの問題ではない。その場で抗議の声を受け流し、新幹線の時間が迫っているとして立ち去った大臣の責任も重い。もはや単なる発言制止に関する謝罪では済まされない。

 毎年、犠牲者慰霊式後に開いてきた懇談会は形式の見直しを検討するというが、本質はそこにない。要は水俣病に政府がどう向き合うかだ。そもそも歴代の自民党政権に問題解決の熱意がさほど感じられないことが、この事態の背景にあるように思える。

 この懇談会も本来なら被害者の声をじっくり聴き、誠実に対話する場のはずだ。「一応聞いておく」だけの分刻みのセレモニーとして、形骸化していた面はないのか。

 水俣病を巡っては2009年の特別措置法で未認定の被害者救済が一定に実現した。その認定基準から漏れた人たちが国などに賠償を求める訴訟が続く。だが、かつて公害を放置した結果、長年にわたる被害を生んだ国の対応が、歳月を経てもなおざりになっていいわけがない。

 例えば、この特措法が国に義務付ける幅広い健康調査である。15年たっても始まらない現状を、ことしの懇談会でも多くの団体が指摘した。本当にやる気があれば、前に進む話ではないのか。

 ふと思うのは、この問題で浮き彫りになった社会弱者への視線の冷たさだ。環境行政だけの問題なのだろうか。

 8月6日、広島市の平和記念式典後に市主催の「被爆者代表から要望を聞く会」が開かれる。首相が式典に参列すれば、7団体から生の声をじかに伝える。核兵器廃絶への訴えとともに、戦後の「原爆孤児」や「黒い雨」被害の救済について要望してきた。

 首相をはじめ国の側がどこまで本気で聞き、施策に反映しようとしているのだろう。水俣の事例を見ると「聞くだけ」ではないかと、不安にもなる。どんな分野であっても弱者の声に真剣に耳を傾け、その命と暮らしを守る責任を忘れないでもらいたい。

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