〈フランス革命〉の混乱の最中に颯爽と登場!…救世主・ナポレオンがもたらした、近代国家の礎となる〈新しい概念〉とは【世界史】

アメリカ独立革命の精神が飛び火して始まった「フランス革命」。国王処刑後、周辺国に攻め入られ、混乱するフランス国民の前に現れたのが、ナポレオンでした。立命館アジア太平洋大学(APU) 学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、ナポレオンによってもたらされた、のちの近代国家の成立に欠かせないものとなる「ある概念」について、詳しく見ていきましょう。

フランス革命とアメリカ独立戦争、ともに「課税問題」が発端だった

ルイ16世のフランスでは、財政赤字が税収の9倍を超えました。

フランスには当時、3つの身分があって、第1身分の聖職者が14万人、第2身分の貴族が40万人、第3身分の平民が2,600万人いました。

聖職者と貴族は税金を払いません。でも、借金が増えてどうしようもなくなったので、ルイ16世は、聖職者と貴族にも税金を払ってもらおうと、三部会を開きます。3つの身分の人たちが別々に話しあうということです。

けれど、第2身分にも、第3身分にも、アメリカ独立戦争で戦って自由平等という「はしか」にかかっている人たちがたくさんいました。その結果、みんなが合流して国民議会が発足して、フランス革命が始まります。

課税問題から革命が起きたという意味で、アメリカ独立革命とフランス革命は一緒です。しかも、アメリカ独立革命の精神がパリに飛び火して、フランス革命が始まったわけです。

王様が処刑されて、君主国はこぞってフランスに攻め入る

「自由・平等・友愛」をスローガンに掲げたフランス革命はどんどん過激化し、ついにルイ16世が処刑されます。

そうなると、ヨーロッパの国はどこも警戒します。連合王国もスペインもオーストリアもプロイセンもロシアも、みんな君主制ですからね。放っておいたら、自分たちの国にも飛び火するかもしれません。だから、亡命したブルボン朝の王族をフランスに戻そうと、ヨーロッパ中の国がフランスに攻め入ります。

こうなると、フランスにとってはしんどい局面です。政府の主が次々と入れ替わり、過激な動きがいろいろ起きました。

それで結局どうなったかというと、最後にナポレオンが出てきました。

新聞の大量発行で「ネーションステート(国民国家)」誕生

フランス革命の時代には、新聞やビラががんがん印刷されました。いろんな派閥が生まれて、それぞれが新聞を発行しては持論を主張したり、政敵を攻撃したりしました。

例えば、ナポレオンは新聞を使って、ジャンヌ・ダルクを「再発見」しました。「英仏百年戦争でフランスがまさに滅びようかとしていたとき、オルレアンの片田舎から一人の乙女が現れて、フランスを救ったことがあったよね」と新聞に書き立てます。

ナポレオンもコルシカの片田舎の出身なので、自分とジャンヌ・ダルクを重ねるのが狙いです。「片田舎から出てきた無名の乙女が、フランスを救った。フランス人がいざというときに頑張ったら、何だってできるんだ」と。

こうして「ネーションステート(国民国家)」が誕生しました。「フランス国民」という意識を共有する人たちから成る「フランス国家」という概念が初めて生まれたということです。

それまでは、誰も自分のことを「フランス国民」とは思っていませんでした。自分はオルレアンの生まれだとか、自分はブルゴーニュ人だとか、プロヴァンス人だと思っていたのです。しかも「フランス国民」は王様に支配されるわけでなく、自由で平等、友愛で結ばれています。こんなことを考えた人たちはいまだかつていませんでした。

ナポレオンは新聞を使って「フランス国民」に呼びかけます。「フランス国民よ、立ち上がれ」と、煽りまくります。するとフランスの人々は「そうか、大変な危機にある今こそ、我々はフランス人として立ち上がらないといけないんだな。オルレアンの乙女やコルシカの青年のように」と思うわけです。

これによってフランス軍は強くなりました。「俺たちはフランス国民だ」「フランスを守ろう」という気持ちで、強くなったのです。これが国民国家です。

フランスに攻め入った君主国の軍隊は、お金で雇われた傭兵です。それを率いるのは王様で、要するに「王様の兵隊」です。でも、フランスは「国民の兵隊」です。この国民兵の力によって、やがてナポレオンはヨーロッパを席巻するのです。

近代国家は、連合王国の産業革命とフランス革命によってつくられました。それが、現在に至るまでの近代国家のベースになっています。日本は愚かな鎖国をしていたので、この2つの大きい流れに乗り遅れてしまいました。

保守と革新の違いは、人間を賢いと考えるかどうか

フランス革命は「自由、平等、友愛」という理念を前面に打ち出し、何でも理性的に考えようとしました。例えば、1日が24時間というのは計算がしにくいと考えて、1日を10時間にしました。1時間が60分というのも計算しにくいから、1時間100分にしました。1分も100秒です。これが「革命暦」で、1805年まで使われました。

これに異を唱えたのが、連合王国のエドマンド・バークです。バークは、平たくいうと「人間は愚かやで」と考えました。「愚かな人間が愚かな頭で考えたものなんか使いにくいで」ということです。だから、今までやってきたことは不都合がない限り、変えなくていいということです。賢くない人間が頭で考えたことなんて信じない。自由、平等、友愛みたいな理念も信じないということです。

バークによって近代的な保守主義が始まります。「保守」とは何かというと、今あるものはとりあえずそのままにして、困ったことが起きたら変えればいいという考え方です。これが保守の根源です。

保守と対置される「革新」とは、「人間は勉強したら賢くなる」と考えます。だから、「何でもきちんと考えて決めた方がいい」ということです。フランス革命の理念がその典型で、「きちんと考えたら1日24時間より10時間の方が計算しやすいじゃないか」というわけです。革新というのは、特に困っていなくても、理性で考えておかしいなら変えていこうという考え方です。これが本来の「保守対革新」の意味です。

フランス革命が生み出した「想像の共同体」

フランス革命は、人類の歴史のなかで非常に影響が大きい出来事でした。例えば右翼、左翼といういい方も、フランス革命のときの議会で、保守的な人たちは議長席から見て右に、革新的な人たちが左にそれぞれ座っていたというのが起源です。メートル法もフランス革命の産物です。保守と革新というイデオロギーもフランス革命から生まれていますし、そして何より国民国家です。

私たちはみんな、自分は日本人だと思っていますよね。でも、江戸時代には日本人という概念はなかったのです。薩摩の人は「殿様は島津様だから、俺は島津の人間だ」と思っていたわけで、日本人などという発想は誰にもなかったんです。

ネーションステート、すなわち国民国家は「想像の共同体」です。だって、顔も名前も知らない人たちのことを、「同じ日本人だ」「だから仲間なんだ」と思っているわけでしょう。しかも仲間の日本人は皆、理屈のうえでは自由で平等なのです。だからこそ僕らは、顔も名前も知らなくとも、同じ日本人が戦場で亡くなれば深く悲しみ、オリンピックで活躍すればわがことのように歓喜します。それは僕らの頭のなかに「日本人の国」という想像の共同体があるからです。

これが国民国家の強さですが、その誕生はフランス革命に遡ります。

連合王国の強さを見抜いたナポレオンは、エジプトに向かう

ナポレオンはエジプトに遠征します。なぜかというと敵対するヨーロッパの国々のなかで、一番しぶといのは連合王国だと見抜いていたからです。プロイセンやオーストリアやロシアも強敵だが、勝てる。でも、連合王国を負かすのは難しい。じゃあ、一番しぶといイングランドの心臓部はどこかといえば、インドだということを、ナポレオンはわかっていました。連合王国が強いのは、インドから富を吸い上げているから。だから、インドとのつながりを断とうとエジプトに遠征しました。

さらにアフガニスタンのドゥッラーニー朝や、南インドで東インド会社と戦っているマイソール王国にも、手紙や使者を送って、「今こそ連合王国を追い出そう」と呼びかけています。インドを南北から圧迫して、自分はエジプトから乗り込むという、大戦略を練ったのですね。これは決して荒唐無稽な話ではなくて、考え抜かれた戦略です。ナポレオンが軍略家として素晴らしい才能を持っていたことは間違いありません。

出口 治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
学長特命補佐

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