アイルトン・セナ没後30年 日本を愛し、日本から愛された男のサーキットでの“憂い表情”の理由【写真ギャラリー】

1994年5月1日、F1サンマリノGP決勝レース中のクラッシュ事故で、不世出のF1ドライバー、アイルトン・セナが命を落とした(享年34)。

没後30年を迎えた今、F1フォトグラファー・金子博氏が、珠玉の写真と共に往年のセナを振り返る。

連載第2回の今回は、マクラーレン・ホンダ時代の活躍や、日本との特別な関係、そして“憂い”の理由などに迫る。

ホンダというより「日本人と組んだ」

1987年、27歳となったセナは、ロータスでの3シーズン目を迎えた。

ここで、運命を大きく変える出会いがあった。

ホンダがチームのエンジンサプライヤーとなったのだ。前年、ホンダのV6ターボエンジンは猛威を振るい、ウィリアムズをコンストラクターズ・チャンピオンに押し上げていた。

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「ここからセナさんとホンダの歩みが始まったわけですが、セナさんからしたら、『ホンダと組んだ』というより『日本人と組んだ』という感じだったんじゃないかな」

「前回も言いましたが、F1はヨーロッパが本流。その中で、ブラジル人のセナさんと日本企業であるホンダは、とちらも“外様”なんです。偶然なのか必然なのか、外様同士が出会って、一緒にヨーロッパをやっつけに行った。その第一歩となったのが、この1987年ですね」

セナの新たなチームメイトになったのは、日本人初のフルタイムF1ドライバーとして参戦してきた中嶋悟(当時34歳)。

チームメイトにもライバル意識をむき出しにすることで知られたセナだが、中嶋に対しては違った態度を見せていたという。

「F1やマシンのことなど、いろいろと中嶋さんに教えていたみたいです。中嶋さんは『教えてくれるってことは、俺のことを(ライバルとして)相手にしていなかったってことだよ』と言っていますけど、本当のところはどうだったんでしょうね」

結局、1987年もウィリアムズがF1世界選手権を支配。

セナは前年と同じ2勝にとどまり、タイトル争いには絡めなかったが、伝統のモナコGPで初勝利を挙げるなど、存在感を見せた。

モナコGPの表彰式の写真は、「レースに全てを懸けていた」というセナの人生を物語る1枚だ。

「モナコの国王にシャンパンをかけちゃって、めちゃくちゃ怒られたんですよ(笑)。シャンパンメーカーの担当者が『やめろー!』って止めに入ったところも撮れています(笑)。要するに、セナさんはヨーロッパのマナーやしきたりを知らなかったんですよね。でも、しょうがないですよ。物見遊山なところが全くない人でしたから」

悲願のワールドチャンピオンへ

王者を目指して。1988年、セナは前年チームランキング2位のマクラーレンに移籍。

ウィリアムズと袂を分かったホンダが、エンジンサプライヤーになることが決まっていた。マクラーレンのマシンは「MP4/4」だ。

「セナさんは、また日本人と組めることになって、嬉しかったのかなぁ。心が触れ合う部分は、間違いなくあったと思います」

開幕から、MP4/4は圧倒的な速さを見せた。セナも、当時の最多勝記録を更新する8勝を挙げ、ついにワールドチャンピオンへと上り詰めた。

年間優勝を決めたのは、ホンダのお膝元、鈴鹿サーキットで行われた日本GPだった。

23歳の時に「絶対にチャンピンになるから、今のうちに俺の写真を撮っておけ!」とうそぶいていた青年が、5年後にその夢を叶えた瞬間だった。

だが、“カメラマン・金子博”にとっては、セナはあくまで取材対象の1人。当時は、特別な感慨は覚えなかったという。

「現場で会ったら挨拶くらいはしていましたけど、初めて出会った時以来、会話という会話もしていなかったですしね。忖度や遠慮が生まれるのが嫌なので、余計な口は利かないのが“僕のスタイル”なんです。それに、セナさんはF3からF1に来て、あっという間に全ての人を追い越していきましたから、当然と言えば当然でした」

この年、マクラーレンは16戦15勝という空前の記録を作った。

残りの7勝を挙げたセナのチームメイトは、“プロフェッサー”の異名を持ったアラン・プロスト。2人のチャンピオン争いは終盤までもつれ、確執も表面化していった。

「これはお互いに幅寄せし合った1988年のポルトガルGPの写真ですね。危ないですよね。でも、やっぱり“セナ・プロ対決”が一番燃えたのかな。F1は1人しかチャンピオンになれないわけですから、本当にきついスポーツですよね」

1988年以降、F1はネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、プロスト、セナが争った「4強時代」から、「セナ・プロ時代」へと移り変っていった。

他を寄せ付けない2人のチャンピオン争いと苛烈なライバル関係は、今でも語り草となっている。

「これは1990年、日本GPの(スタート直後の1コーナーで)クラッシュしたセナとプロストのマシンですね。これ(双方がリタイアしたこと)でセナの年間王者が決まったんですけど、プロストはよく掴みかからなかったですよね(笑)」

「この距離で歩いていたら、ひと悶着ありそうですけど。本当に仲が悪かったのかなぁ。(F1中継の実況をしていた)古舘伊知郎さんが、プロストを悪役にしちゃったところもあったから(笑)」

セナはプライベートを“捨てていた”

1990年に2度目のワールドチャンピオンになるなど、この頃、セナは絶頂期を迎えていた。だが、前回、金子氏が語っていた通り、“笑顔”の写真はほとんどない。

「この写真は、1992年のハンガリーGPで、金曜か土曜のセッション後に撮ったものなんですけど、この1枚がセナさんの本質を物語っている気がするんですよね。好き放題に勝っていた頃なのに、この表情なわけですから」

グランプリがある週末しか見ていないから、本当のところは分からない…。としながらも、金子氏はセナがまとっていた“憂い”について、こう解釈を口にした。

「彼は、勝つためにあらゆる犠牲を払っていた。プライベートを『分けていた』というレベルではなく、『捨てていた』という印象です。ブラジルから出てきて、本当にヨーロッパの連中と“勝負”して、悩んだり、寂しかったりすることもあったはず」

「そんな中で、セナさんは“1人”だったんですよね。最低限、家族や友達はいたんでしょうけど、本当に1人に近かった。だから、辛かったんだと思うんですよね。それが、こういう表情になって出ているのかなって」

日本を愛し、日本から愛されたセナ

一方で、セナがリラックスした表情を見せる場所が、2つだけあったという。1つ目が、母国・ブラジルだ。

「ブラジルに帰った時は、少し笑顔が見られましたよね。1987年のブラジルGPの写真も、ちょっと笑っていますもんね。感極まった表情を見せたのは、初めて母国で優勝した1991年のブラジルGPの時。嬉しかったんでしょうね。もしかしたら、これがセナさんのレース人生のハイライトだったのかな…」

そしてもう1つが、日本だ。

「やはり、ホンダの人たちとは強い絆で結ばれていたんだと思います。(本田技研工業の創業者)本田宗一郎さんもセナさんのことが大好きでしたからね。お互い、F1界では“外様”だったけど、結果を出し合って、評価もされて。そういったことが、日本に対する安心感につながっていたんじゃないかな」

折しも、当時の日本は空前のF1ブーム。中でも、セナのファンの数は圧倒的だった。来日時、セナはバラエティ番組などにも出演し、サーキットでは決して見せない、お茶目な表情を見せていた。

「とんねるずの番組に出たりして、セナさんも楽しんでいましたよね。もちろん、とんねるずの絡み方も上手かったんでしょうけど、セナさんがあんなに嬉しそうにやっていたのは、『日本だから』というのも大きかったんじゃないかな。イギリスの番組で、相手がイギリス人だったら、きっとああはならなかった。やはり日本も、セナさんが心を開いた大切な場所だったんだと思います」

セナの“凄味”を感じた場所

レース中は写真撮影に集中し切っているため、ドライバーによる速さやテクニックの違いにはあまり意識が向かないと言う金子氏。

だが、セナの際立つスピードを、否が応でも感じる場所があった。サンマリノGPが行われる、イタリアのイモラサーキットだ。

「『アクアミネラーリ』と呼ばれるコーナーで写真を撮っていると、セナさんだけ全然速度が下がらないんですよ。他のドライバーたちは、そこでガクッとスピードが落ちるんですけど、セナさんだけは、そのままブーンと行っちゃう。派手にカウンターを切ったりしているわけではなかったので、あれは不思議でしたね」

だが奇しくも、天賦の才を示したそのサーキットで、セナは悲劇に見舞われることになる。

次回は、1994年5月1日。その日、その時を写真と共に振り返るほか、金子氏が亡きセナへの思いを語り尽くす。

【金子博プロフィール】
1953年、東京生まれ。1976年からフリーランスとしてレースの撮影を開始。以降、500戦以上のF1GPを撮り続け、2011年には取材者にとって最高の栄誉である「F1永久取材パス」を授与された。

(構成:岡野嘉允 / 企画:本間学)

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