【サッカー観戦で世界の辺境へ】(1)砂漠とラクダの街「ドバイ」と水と笑顔の街「平壌」で

ミネラルウォーター輸入業者と出会った平壌では、W杯予選の北朝鮮戦を取材。提供/後藤健生

日本は「極東」と言われる。ヨーロッパから見て、の話だ。蹴球放浪家・後藤健生の羅針盤はサッカー。ふつうならば行かないような国々にも、サッカーに導かれて足を伸ばしてきた。

■ワールドカップ1次予選で「30年前」にドバイへ

サッカーを追いかけて放浪を続けていると、辺鄙な国に迷い込むことも多々あります。「辺鄙な」という表現が適当でないとすれば、「日本人があまり行かない国」と言い換えてもいいでしょう。

たとえば、1993年にはアメリカ・ワールドカップ予選のために1次予選ではUAE(アラブ首長国連邦)のドバイとアル・アイン、最終予選ではカタールのドーハを訪れました。

今では、ドバイもドーハも超高層ビル群が立ち並んでおり、ドバイのエミレーツ航空やカタール航空は世界をつなぐ航空会社になっています。しかし、1993年当時はどちらも小さな都市。日本からの直行便などはなく、たいてい東南アジアの航空会社を利用していました。中東諸国の航空会社で遠距離便を飛ばしているのは、バーレーン、アブダビ、オマーンが共同出資したガルフ航空くらいのものでした。

今では「ドバイ観光」といったツアーも見かけますが、30年前には日本人でそんな中東諸国に行く人はほとんどいませんでした。行ったとしても、何も見るところもありませんでしたからね。珍しかったのは砂漠とラクダくらいのものでした。

■24時間働く「日本人サラリーマン」と世界各国で

当時の日本人にとって、「ドバイ」といえば「ハイジャックされた飛行機が降りた空港」という以上のものではなかったでしょう(1973年7月、日本赤軍のメンバーなどにハイジャックされた日航ジャンボ機がドバイに緊急着陸。日本中の人が「ドバイってどこ?」と思ってグーグルマップ……ではなく世界地図帳を開いた。ジャンボ機はその後、リビアに向かって着陸後に爆破された)。

しかし、世界中どこに行っても、世界第2の経済大国だった(!)日本人がいないわけはありません。日本にとってUAEやカタールは石油や天然ガスの供給源ですから、24時間働く日本人商社マンや技術者がたくさん滞在していたはずです。

しかし、現地でそうした石油関係者と出会った記憶はあまりありません。きっと、大企業に務める商社マンは高級ホテルとかに泊まっていたからでしょうし、技術者たちは現場にいたのでしょう。

とはいえ、どんな場所にいっても、日本人とまったく出会わないということはありませんでした。いろんな国で、いろんな日本人と出会い、「こんな所でも働いている日本人がいるんだなぁ」と感心したものです。

もっとも、あちらも「こんな所までサッカーの試合を見に来るとは、物好きな人……」と思ったに違いありませんが。

■平壌で「北朝鮮のミネラルウォーター」輸入業者と

1985年のワールドカップ予選で北朝鮮の平壌(ピョンヤン)に行ったときに、何度も出会ったのは日本全国の朝鮮学校の生徒たちの修学旅行でした。北朝鮮の人たちはあまり感情を表に出しません(一般庶民の場合。エリートたちは別です)。しかし、日本育ちの朝鮮高校の学生たちは、ルーツは朝鮮であっても、文化的には日本文化の中で育っているので、日本人と同じように笑ったり、照れてみたりします。そうした表情を見ると、親近感というか仲間意識のようなものを感じます。

彼らも同じような気持ちだったのでしょう。日本人記者団に対して親しみを込めた笑顔を送ってきました。

日本選手団と記者団が泊まっていた大同江(テドンガン)のそばの平壌旅館(ピョンヤン・ホテル)にも、日本人が滞在していました。

当時、北朝鮮を訪れる日本人は1年間で800人くらい(政府が把握している人数)と言われていましたから、かなりレアな存在です。話を聞いてみると、北朝鮮のミネラルウォーターを日本に輸入している会社の人だということでした。

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