【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話013「才能ありすぎてかわいそう」

クリエイティビティを発揮してなんぼというアーティストの場合、才能は豊かであればあるほどよろしいと思いますよね。ただ、私、才能豊かな人を見て「才能がありすぎで、かわいそうだなあ」と思った瞬間がこれまで何度もありました。

例えば音楽の場合、優れたミュージシャンというのは絶対的に耳が良い。曲も一度聴けば、その構造や音の成り立ちが分かってしまうから、本質的なポイントや新たな気付きのようなものがスポンジが水を吸うごとく吸収されていく。そしてそれが「パクリ疑惑」に直結したりするわけです。

私はかつてバンドでギターを弾いていましたが、かっこいい曲を聴いて刺激を受けると「このトーンとアタック感だ」とか「このリズムで」「こういう跳ねた感じのリフ最高」とか、そのカッコよさのエッセンスを最大限取り込んだ楽曲を作り始めるわけですが、いかんせん音楽的才能とセンスがないがゆえに、なんだか思ったようにならず、何がどうなれば望む感じになるのかの回答も得られず、こねくり回しているうちに、結果何にも似ていないようなものに変貌し完成を迎えてしまう。あげくそれをドヤ顔で「オリジナル」というわけです。パクりたくてもパクれない、その不憫さを密かに乗り越えて(笑)。

でも才能豊かな人は、一度聴くだけでポイントを押さえる。ぎゅっと凝縮されたエッセンスをしっかりと嗅ぎ取っているんですね。で、問題は、本人が意識せずに音楽に触れ「カッコいい」などと潜在意識下で感応しちゃったとき。本人はことさら意識をしていないので、その曲をいつどこでどう聴いたかの自覚がない。聴いたことがあるかどうかも分かっていない。多分、聴いた事は一度もないと思っていることでしょう。

で、何かのきっかけで、そのエッセンスが顕在意識でフワッと姿を表す。「お、カッコいい曲、ひらめいた」と意気揚々と曲作りに入るわけですが、溢れんばかりの才能が驚くほどの再現性であの時に聴いてしまっていた楽曲を成形してしまうわけです。出来上がった曲は「あの曲にそっくりやん」「これ、パクリっすね」となる。知らぬは本人だけという悲しすぎる現実。

ウソのようなホントの話で、こういう状況を何度も見たことがあります。世の中には「これはパクリやな」と揶揄される楽曲がたくさんありますが、性善説で唱えれば、少なくともプロの世界では意識的にというか意図的にパクるなんて行為はありえないでしょう。だって、それは命取りだもの。そもそもダサいじゃん。誰にだって自分のアイデンティティがあるし、そこにはプライドもある。

ということで「こんなの偶然のはずないじゃん」レベルのそっくり作品には、このような経緯があることも知ってほしいと思っての執筆でした。

文◎BARKS 烏丸哲也

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