「親兄弟を空襲で失い、無戸籍のまま80年生きた」専門家も驚く戦争孤児、令和に実在?わずかな情報を頼りに探した記者が出会ったのは…(前編)

上野駅地下道でたむろする子どもたち、終戦後は孤児であふれていた=撮影日時不明

 昨年夏、埼玉県蕨市に住む88歳の女性から、ある信じられない話を聞いた。
 「今も無戸籍のまま暮らす戦争孤児がいるみたい」
 戦争孤児とは、主に太平洋戦争で親やきょうだいを亡くし、幼くして身寄りがなくなった人のこと。終戦時、上野駅などは孤児であふれ、社会問題になった。話してくれた金田茉莉さんも元孤児。1945年3月の東京大空襲で母と姉、妹を失っている。父親は空襲前に他界しており、疎開先の宮城県から戻った直後、孤児の一人となった。焼け野原に残された10歳の孤独感は計り知れない。
 その経験から、戦争孤児の実態調査に半生を費やしていた。私が訪れたのも、戦争孤児たちの話を取材していたからだ。
 戦後80年近くたった今も、戸籍を持たず、社会と隔絶されたままこの国に生き続けた孤児がいるという。終戦から数年後ならともかく、本当にそんな人が存命しているのだろうか。驚くと共に、どんな人生を歩んだのか聞いてみたいと思った。金田さんは近々、その孤児を支援している人に会うという。私も同席したいと伝えると快諾してくれた。

インタビューに応じる金田茉莉さん、これが最後の取材になった=2023年7月

 ところが、会うはずのその日、金田さんはくも膜下出血で倒れた。「今日の取材はキャンセルで…すみません」。電話越しに聞こえた金田さんの長男の言葉をどう受け止めていいか分からず、ぼうぜんとした。
 金田さんは二日後に亡くなった。長男によると、薄れゆく意識の中で「約束があって、会いたいの」と最期まで語っていたという。以前、金田さんは熱を込めて言っていた。「私は頭に『爆弾』を抱えていて、いつ倒れてもおかしくない。無戸籍の戦争孤児は最後に取り組まなければいけないテーマだ」
 その遺志を引き継ごうと決めた。「無戸籍の戦争孤児」はどこにいるのか、それ以前に本当に存在するのか。名前も所在もつかめない人探しが始まった。(共同通信=森清太朗)

※記者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。

金田茉莉さんの死去後、自宅に供えられた花=埼玉県蕨市、2024年1月

 ▽「Aさん」を探して
 金田さんは戦後40年を過ぎた頃から、同じ境遇の人を探し歩き、集めた証言を複数の著書にまとめている。「国から捨てられた」という悲しみは癒えず、時代の流れの中で忘れ去られた戦争孤児の歴史に光を当てるとの思いで、晩年まで活動を続けた。「歴史の闇に切り込み、孤児たちの心も啓(ひら)いた」とされる。
 金田さんが会いたがったこの無戸籍の孤児を、仮に「Aさん」と呼ぶ。金田さんによると、東京大空襲で家族を失い、何らかの理由で無戸籍のままらしい。市民団体「戦争孤児の会」の代表世話人まで務めた彼女も、「無戸籍の問題と孤児がつながることはなかった」。

 手始めに、Aさんの支援者を取材したが、まずこう言われた。
 「個人情報なので、彼のことは話せない」
この支援者は、Aさんに戸籍を作る「就籍」を勧めたものの、本人に拒否されたという。それ以外のことは口が重く、手がかりは得られなかった。分かったのは「彼」。つまり男性だということだけだ。
 いきなり手がかりを失った私は、Aさんと似た境遇の人を探してみることにした。新聞や書籍などで証言をしてきた孤児に会えないだろうか。金田さんの本にも登場した身売りされた経験を持つ男性を訪ねたが、すでに他界。病気を理由に取材を断る人もいて、一筋縄ではいかなかった。

金田茉莉さんの著書「かくされてきた戦争孤児」など

 ▽孤児に戸籍を与え続けた「愛児の家」
 次に、視点を変えようと考えた。当時戦争孤児を保護していた児童養護施設が、戸籍をどう整理していたのかを取材し、糸口を探ろう。そこで、終戦後に故石綿貞代さんが100人以上を育てたことで知られる「愛児の家」(東京都中野区)を訪ねた。
 愛児の家では、身に着けていた名札の字や保護した状況から、それぞれの孤児に名前を付けた。その上で戸籍を作った。学校に通わせるためだ。
 石綿さんの三女裕さん(91)によると、戸籍を作った子も「元の戸籍が残っていて、『ダブル戸籍』になっていた可能性」があるという。一方で、戸籍を作る前に脱走した子もいた。
 混乱した当時の状況は見えてきたが、Aさんの手がかりはない。その後、全国空襲被害者連絡協議会に参加する孤児や、東京大空襲の国賠訴訟に携わった弁護士などに話を聞いた。しかし、やはり情報は得られない。それ以前に「無戸籍の孤児なんて聞いたことがない」という。
 ある関係者からはこうも言われた。
 「金田さんでもできなかったのに、あなたにできるの?」

児童養護施設「愛児の家」=東京都中野区

 ▽ようやくヒントが…炎天下ホームレスに声をかけ続ける
 私には「Aさんはホームレスなのではないか」という予感があった。無戸籍ではまず家を借りることができない。支援者に最初、Aさんの暮らしぶりを尋ねた時、言葉を濁されたことも気にかかっていた。
 そこで首都圏に拠点を置くホームレス支援の民間非営利団体(NPO)などに情報提供を求めた。やはり手がかりは得られない。それどころか、何かを警戒されたのか折り返しの電話すらかけてくれない団体もあった。
 取材は完全に「詰んだ」状態になった。ところが、金田さんの死から2週間がたった頃、思わぬところからヒントを得た。
 この件とは別の取材で会った福祉関係者から、首都圏の団体が援助している、あるホームレスの男性の話を聞いた。無戸籍で、空襲で両親を亡くしたという。
 この福祉関係者も男性を直接知っているわけではない。ただ、断片的な情報を二つだけ持っていた。
 ①橋の下で暮らしている
 ②何かの工事で居場所を追われた
 これだけではまだ何とも分からないが、少しだけ光が見えた気がした。首都圏のあらゆる「橋の下」をとにかく探し回ろう。そう考え、まずは河川事務所などに残るここ数年間の工事記録をたどり、河川敷周辺をピックアップした。季節は真夏。革靴をスニーカーに履き替え、歩き始めた。
 とにかく行ってみることだ。そう思ってたどり着いたある河川敷で、休憩中の土木作業員に声をかけると、こんな話が聞けた。
 「上半身裸の男が毎日自転車に乗ってる」

河川敷周辺でホームレスを訪ね歩いた記者

 川沿いを1時間ほど行ったり来たりしていると、200メートルほど先に自転車で走り去るタンクトップ姿の男性が見えた。
 さすがに自転車は速く、走っても追いつけない。地面にできた車輪の跡をたどり、草の中に乗り捨てられた自転車を見つけた。生い茂った背丈ほどの草を書き分けると、レジャーシートで屋根を作った掘っ立て小屋が目に入った。
 中には読書をする中年男性。傍らにはペット用食器に入ったするめいかや、片方だけのバドミントンのラケット。痩せこけた彼が読んでいたのは夏目漱石の「三四郎」だった。
 年齢的に、戦争孤児ではないだろう。
 「この辺に80歳くらいの男性は暮らしていませんか」
聞いてみたが、めぼしい情報はなかった。
 ある水門の近くでは、片耳が聞こえないという高齢男性に出会った。集めた空き缶をつぶしては買い物カゴに仕分ける毎日だそう。生まれた年やこれまでの生活状況を尋ねたが、やはりこの人でもない。
 予想はしていたものの、住所も名前も分からない人を探し出すのは簡単ではない。「金田さんでもできなかったのに」。炎天下を歩きながら、あの言葉が何度も頭をよぎった。

「橋の下」を捜し歩いた記者

 ▽「空襲で親を亡くした」と話すホームレス
 「もう諦めようか」。そう思いかけていた8月初旬の昼下がり。帰り際の野球部員から、ある高齢のホームレスの情報が聞けた。
 「おじいちゃんならこっちにいます。最近引っ越してきたんですよ」
 引っ越しという言葉に思わず反応した。居場所を追われたというヒントに合致する。
 案内されたコンクリートの護岸の上で、高齢の男性が大の字になって寝ていた。

 少しだぼついたズボンに黒いタンクトップ姿。ほおはこけ、着衣の上からもあばら骨が浮いているのが分かる。川風に白髪がなびいていた。そこは、橋の下だった。
 近寄ると、男性は片目を開けて鋭いまなざしを向けた。ゆっくりと起き上がり、名前を「ダイスケ」と名乗った。
 「偽名だよ。この周辺じゃ、みんな俺のことをそう呼んでいる」
 名前はほかにも何十個とあるという。人生に曲折があったことがうかがえる。
 本名を問うと、顔をゆがめながらこう答えた。
 「空襲で親を亡くしてるから、親が付けてくれた名前なんて分からないもん。(当時)4歳の子どもなんだよ、覚えてるわけがない」
 胸が高鳴った。ひょっとしてこの人かも。ひとまず「ダイスケさん」と呼ばせてもらうことにした。

コンクリート護岸の上で眠る「ダイスケさん」(中央右寄り)=2023年8月(画像を一部加工しています)

 (つづく)
【後編はこちら】「桜の花びらのような無数の遺体、今も夢に見る」無戸籍で約80年生きた戦争孤児が明かす、壮絶な半生(後編)

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