「桜の花びらのような無数の遺体、今も夢に見る」無戸籍で約80年生きた戦争孤児が明かす、壮絶な半生(後編)

河川敷で出会った「ダイスケさん」(画像を一部加工しています)

 太平洋戦争で親やきょうだいを失った「戦争孤児」で、戸籍がないまま79年間を生き抜いた人がいるらしい。わずかな情報から、その無戸籍の戦争孤児「Aさん」を探し始めた私は、首都圏のある河川敷で「ダイスケ」と名乗るホームレスの高齢男性に出会った。
 ブルーシートや段ボールで作った「家」は橋の下にあり、1945年の東京大空襲で親を失い、4歳で孤児になった。戸籍もないと言う。探し続けたAさんと条件が一致する。
 取材は約1年に及んだ。戦後80年をどう生きたのかを知りたくて、口が重い彼を何度も訪ね、対話を重ねた。訥々と語られたその半生は、社会の底辺から見た日本の戦後史だった。(共同通信=森清太朗)

※記者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」をお聞きください。

東京大空襲を受けた浅草の焼け跡=1945年3月

 ▽「83歳、家族は空襲で焼け死に、上野で浮浪児になった」
 2023年8月初旬、河川敷には強い日差しが照りつけていた。ダイスケさんに名刺を渡した後、私は「しばらくここにいても良いですか」と許可を求めてみた。
「まあ…あれ持ってこい」
そう言って、コンクリート護岸の上に積まれた荷物を指さした。アウトドアチェアを貸してくれるのか。話は聞けそうだと思い、2人で川を眺めながら質問してみた。
 ―この辺は長いんですか?
 「1年くらいかな。向こうから移動してきた。工事があるかもしれないからって。でもそりゃ名目で、俺を追い払うためだ」
 ―この生活はいつからですか?
 「10年くらいになるかな。物乞いもしたし、大変ってもんじゃないな。俺は戸籍も無いんだもん」
 ―おいくつですか?
 「82歳か83歳。誕生日を知らないんだ」
 ―お生まれは?
 「俺は浅草にいたんだ。だけど空襲に遭って、家族も親戚もみんな焼け死んだ。俺は外にいて、焼夷弾が降ってくるから必死に逃げたんだよ。俺だけが生き残っちゃったから…」
 ―空襲って東京大空襲ですか?
 「そう」
 ―1人になってどこへ?
 「上野駅。構内に入れるやつはまだいい。他にも大勢(子どもが)うわっといたんだから。俺もそのうちの一人」
 ―直近ではどんな仕事を?
 「土木会社でまかない作り。『若いやつに譲ってくれ』と言われてクビになった」
 ―先ほど「戸籍が無い」とおっしゃった。戸籍が無くて困っていることはありますか?
 「病院には30年くらい前にけがをして行ったきり。一回保険証無しで行ったら分かるよ。少し薬を塗るだけで何万、何十万だ」
 「家も借りられない、電話も持ってない、銀行口座も作れない、病院も行けない。みんな要るでしょ…」
 ―戸籍を作ろうとは思わなかったんですか?
 「窓口で相談したけど、取れなかったんだよ。今さらやって何年かかると思う?その間に死ぬよ。もし取れたって何になる?」
 帰り際、また来て良いかと尋ねると、彼は素っ気なくこう言って「家」へ帰って行った。
 「もう話すことはない。記者がまた来た試しがない」

「ダイスケさん」(画像を一部加工しています)

 ▽配当金300万円
 彼は河川の氾濫被害を取材しに訪れた記者と話したことがあるらしい。ただ、「2回来た記者はいない」。
 その言葉を思い出しながら、その後もダイスケさんの元に通った。一緒に飲もうとコーヒーを持っていったり、冬場はカイロや日本酒を持参したり。会話の入り口は決まって今日聴いたラジオの話。通ううちに彼の日常が少しずつ見えてきた。
 ダイスケさんの日課は、早朝からのアルミ缶回収。暇があればボートレースや競馬に興じる。周辺に暮らすホームレス仲間と少額を出し合い、当たれば山分け。1日当たりの配当金の最高額は「300万円」と少し自慢げに話してくれた。もうけが出ると半額をため、残りの半額は次の軍資金に回すのがセオリーらしい。
 拾ってきた物がフリーマーケットなら高値で売れるだとか、ボランティアへのぼやきとか。「逮捕するぞ」と退去を迫る警察官や、宗教勧誘の話なんかもしてくれた。戦争以外の話をする時のダイスケさんの表情は、少しだけ柔らかかった。彼の上に2人のきょうだいがいたことなど、徐々に昔話もしてくれるようになっていた。

ブルーシートや段ボール、毛布で作られた「ダイスケさん」の家(画像を一部加工しています)

 ▽明かしてくれた「名前」
 2023年の暮れ、いつものように「ダイスケさん!」と声をかけると、意表を突く返事が返ってきた。「ダイスケじゃないよ、『亀田俊夫』(仮名)。靴磨きの親方につけてもらったんだ」。出会いから5カ月、初めて彼の「名前」を知った。
 もちろん戸籍上の本名ではない。彼が口にしたことが全て真実とも限らない。ただ、その後に聞かせてくれた、戦後から現在に至るまでの自分史は具体的で、迫真性に富むものだった。
 実家は、浅草にある言問橋の近くだったそうだ。煙を上げ燃えさかる街。川には、水面を流れる桜の花びらのように無数の遺体が浮かんでいた。
 「ああいう時は無感情になる。だから1枚の写真のように焼き付いてるんだよ。たまに夢に見る」

言問橋の下=東京都台東区

 空襲で家族を失った後、上野駅周辺で暮らした。身寄りがなく、「浮浪児」とさげすまれた。やがて御徒町の闇市で「親方」と呼ばれる男に拾われる。「靴磨きの仕事ならできるよ」と声をかけられたのがきっかけだ。親方の姓の「亀田」を名乗ることに決めた。
 靴磨きの料金は、日本人サラリーマンが1回5円。これに対して米兵は1ドル札とチップを支払ってくれた。1ドル=360円の固定相場制の時代。駐留軍相手の仕事はまさに破格だった。
 ガード下で野宿しながら少年十数人でグループを作り、東京駅や上野駅、秋葉原駅前の職場を行き来する生活だった。給料は全部山分け。朝、目を覚ますと、隣で寝ていた仲間が冷たくなって死んでいたこともあった。昨日まで元気だったように見えたが、そうではなかったのだろう。
 「一人働かなかったら、他が余計に働かなきゃいけなくなるから、『すまねえ』って病気を言い出さないんだよ。その頃は雪もよく降ったから、今よりひどく寒い」
 東京都は戦後、浮浪児たちがたむろする上野を中心に、彼らを捕らえて保護施設に収容していた。「刈り込み」と呼ばれた施策だ。戦後混乱期の治安維持が目的だったとされる。ところが、浮浪児たちの間では「保護施設に行けば腹が減る」「着物がない」「病気をもらう」とうわさされた。脱走者が相次ぐほど劣悪な環境だったという。
 「だから俺は行かなかった」。4~5年で親方の元を離れ、闇市に舞い戻った。親方はもめ事に巻き込まれて死んだと人づてに聞いた。
 その後はお祭りを巡業するテキ屋、ギター片手に酒場で歌う流し、バーテンダーと職を変え、30代で中華料理屋に行き着く。どこに行っても口にできないほどみじめな思いをした。だからなのか、何度も私にこう言った。

 「俺は10分の1もしゃべらないよ」

靴磨きをする戦争孤児=1946年8月

 ▽「俺は人間じゃないってか」立ちはだかったのは役所
 亀田さんにも、かつて結婚を考えた女性がいた。
 「25歳くらいの時に付き合ってたやつがいてさ。でも、嫁さんをもらうにも戸籍がないとできないんだよ」
 仕事で住処を変えるたびに、区役所で「戸籍が欲しい」と相談した。話は聞いてくれるが、そのたびに「本当は朝鮮の出身じゃないか」と疑われたそうだ。日本のどこで生まれ、これまでどこで何をしていたのか―。職員はみな、亀田さんのルーツとそれを証言できる人を要求。最後は決まって「また調べとくから」と追い返す。 「おまえは『数』に入ってないよ」と邪険に扱ってくる職員もいた。
 そんなことが7回、8回と続いた。
 「戸籍に載っていない俺は人間じゃない、日本国民じゃないってことだ」
 「4歳で親なし、親戚なしのやつに…話にならないじゃん」と吐き捨てるように言う。その声色には諦めがにじんでいた。

 「国なんかあてにしてない」
 愛した女性とは一緒になれなかった。ただ、どれだけ孤独にあえいでも自死だけは選ばなかった。こんな信念があるからだ。
 「俺が死んだら、誰が親やきょうだいを思ってあげられるんだ」
 先祖代々の墓があるかどうかもわからない。それでも生き抜いてきた。

亀田俊夫さん(画像を一部加工しています)

 ▽行政にできることはなかったのか。国や専門家は…
 行政がきちんと対応していれば、亀田さんも戸籍を取り戻せたのでは。そんな疑問を持ち、専門家に話を聞いた。東京都内の区役所で29年間戸籍事務に従事した戸籍制度史研究家の岩田章浩さん(71)だ。
 岩田さんは、行政が証言者を求めた対応については、「なりすまし防止のためで、間違ってはいない」と評する。ただ、本籍地を一定の地域内に絞れれば、そして住居や両親に関するある程度の情報があれば、戸籍をたどれたと指摘する。
 亀田さんは「自宅が言問橋のそばだった」と証言している。岩田さんは、幼少期に暮らした場所を本所区(現墨田区)か浅草区(現台東区)と推測した。岩田さんによると、本所区の戸籍原本は戦火で焼失し、浅草区は一部しか残らなかった。しかし、裁判所で別に保管されていた副本を元に、いずれも復元されているという。ただ、残念ながら亀田さんの家族に関する情報は無い。4歳だった亀田さんに根拠となりそうな記憶を求めるのは酷だ。

戸籍制度史研究家の岩田章浩さん=東京都江戸川区、2024年4月

 では、新たに戸籍を作る「就籍」はどうか。就籍の手続きは役所で完結せず、家庭裁判所の審判が必要になる。場合によっては調査官がルーツを当たる。本人から成育歴や親族関係を聞き取ったり、市町村や通った学校に照会したりする。
 ただ、亀田さんにその気はないようだ。これまでも、知り合った社会福祉士などから何度か就籍を勧められたらしいが、その都度拒んだという。理由は、この国に対する諦めだ。

家庭裁判所に提出する就籍許可の審判申立書

 

 ▽誕生日は東京大空襲の日。「俺は生まれ変わった」
 亀田さんは戸籍上の本名や誕生日、家族の顔などとうに忘れたという。「初めは覚えてたけどさ、年月がたったり、名前を付けられたりするうちにさ、ごちゃごちゃになって分かんなくなっちゃったんだよ」
 ずっと「亀田俊夫」として生きてきた。誕生日は「空襲の日だ。生まれ変わりだ」。
 この先どう生きていくのだろうか。身分証がなくて家を借りられないため、路上生活を続けるしかないと話す。一方で、吹っ切れたように言った。
 「俺は自然淘汰でいい。そのうちここも追い出されるから、次に行かなきゃ。自分の死に場所は、自分で選ぶ」
 亀田さんに、ここ1年で最も気になったニュースを尋ねたことがある。答えは「パレスチナ」だった。イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘で多数の民間人犠牲者が出ていることに実体験を重ねたようだ。「戦争はいけない。どっちが良くても悪くてもさ、普通の人が被害を受けるからね」。声に実感がこもっていた。

亀田俊夫さん(画像を一部加工しています)

 ▽編集後記
 この「亀田さん」が、無戸籍の戦争孤児かどうかを法的に確定するすべはない。亀田さんは、出自や来歴を証明するものを持っていない。裏を返せば無戸籍であることの裏付けも見つかっていないということだ。一種の「悪魔の証明」にすら思える。ホームレスの巡回相談を担う自立支援センターも取材したが、協力は得られなかった。
 亀田さんにたどり着く手がかりを最初に教えてくれたのは、自身も戦争孤児で、孤児の実態調査に半生を捧げたことで知られる「戦争孤児の会」元代表世話人の金田茉莉さんだった。
すべては金田さんと「無戸籍の戦争孤児Aさん」の支援者が会う約束をしたことから始まった。私も取材のためその場に同席するはずだった。だが、金田さんは約束の日に倒れ、Aさんに会えないまま亡くなった。

母と姉、妹と撮影した写真を手にインタビューに応じる金田茉莉さん=埼玉県蕨市、2023年7月

 亀田さんに出会って数か月、Aさんの支援者の携帯を鳴らした。一度は取材を断られたが、経過を伝えると、ようやく「Aさん=亀田さん」だと明かしてくれた。
 私は、埼玉県蕨市にある金田さんの自宅を再訪し、亀田さんとのことを仏前でこう報告した。

 「見つけましたよ。ありがとうございました」

言問橋付近にある東京大空襲の追悼碑=東京都台東区

 金田さんは、生前最後のインタビューでこう語っていた。
 「戦争孤児というのは家族も故郷も失い、人間の裏を見てきた。どれだけ苦労したかをきちんと調べず、『戦争だから仕方ない』と済ませてはいけない。今でこそ家も子どもも持てたけど、幸せだったとは言えない。せめて最期は日本人として尊厳を持って死にたいです」
 既にこの世を去った大勢の孤児たちも、亀田さんも同じではないだろうか。親に先立たれ、自分が何者かを見失ったまま生きた子どもたちには「終戦の日」は来ていない。

【前編はこちら】「親兄弟を空襲で失い、無戸籍のまま80年生きた」専門家も驚く戦争孤児、令和に実在?わずかな情報を頼りに探した記者が出会ったのは…(前編)

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