スイスで高まる洪水リスク 当局の対応は遅く

2021年7月、豪雨で浸水したヌーシャテル湖畔の公園で遊ぶ子どもたち (KEYSTONE)

気候変動や都市化により、スイスで水害のリスクが高まっている。新しい治水技術も開発されているが、当局の対応は遅れがちだ。

人口1500人を抱えるベルン州メルヒナウ村に暮らす高齢者の多くにとって、1986年は決して忘れられない年だ。彼らが経験した大水害は今も「集団的トラウマ」になっている。

元土木技師でキャリアの多くを治水・排水に捧げてきたクリスティアン・アイヒャー氏は、1986年6月20日にメルヒナウは非常に激しい雷雨に見舞われたという報道記録について語った。「1時間に50ミリを超える雨が降り、メルヒナウの道路は冠水した。家屋や牧草地も水浸しになり、道路は寸断された。幹線道路は最大1メートル沈んだ」

「1986年当時、メルヒナウ役場には治水計画の作成経験がほとんどなく、対策にどれくらいの費用がかかるか見当もつかなかった。極端な水量の推定値を盛り込んだリスクマップの作成に着手したが、水量を減らし洪水から守るための具体的な対策は施されなかった」

それから約20年経った2007年と2010年にも豪雨に見舞われ、既に地盤が緩んでいたこともあって広範な洪水と交通分断をもたらした。アイヒャー氏は2度の洪水を追跡調査し、写真に収めた。過去30年間の洪水の頻度や被害の大きさも調べ、考えられる予防策の提案を添えて役所に提出した。

メルヒナウの例はスイスの特殊ケースではない。ベルン大学と保険会社モビリアの共同プロジェクト「自然リスク研究所」によると、過去40年でスイス自治体の8割が洪水を経験し、建物の6割は土砂崩れに直面したことがあり、7人に1人は洪水に遭った建物に住んでいる。

スイス連邦森林・雪・景観研究所(WSL)は、1972 年以来の水害を記録・分析している。2021年に発表された報告書によると、「洪水はスイスで最も被害額が大きい自然災害」だ。

洪水は世界問題に

気候変動に伴い、水害は世界中で自治体の最優先課題となり、革新的な対策が広がっている。科学誌ネイチャー・コミュニケーションに掲載された2022年の論文によると、世界人口の23%に相当する18億人が、100年に1度の大洪水リスクを抱える地域に居住する。

日本は歴史的に水害が多い。堤防の決壊による典型的な洪水(外水氾濫)に加えて、近年は排水が追いつかなくなり下水道管などから逆流する「内水氾濫」が都市部の大きな脅威になっている。河川から離れた地域でも被害が起き、地下街の多い大都市では特に危険だ。

そのため政府は従来の洪水ハザードマップに加え、「内水ハザードマップ」作りを自治体に促している。ただ下水管や水路の配置などを踏まえて浸水をシミュレーションしなければならないため、作成にかかる負担は洪水よりも大きい。国土交通省は2021年にハザードマップの前提となる「浸水想定区域図」の作成を下水道管理者に義務付け、22年から作製費用を助成している。

民間の動きも活発だ。三井住友海上火災保険とハイドロ総合技術研究所は先月、「内水氾濫予測システム」を開発したと発表した。地表面や河川、下水道のデータを組み込むと、気象庁が発信する降雨予報をもとに浸水をシミュレーションできる。早稲田大学の関根正人教授は東京23区の内水氾濫を予測するシステム「S-uiPS(スイプス)」を2022年から先行公開している。

デンマークの首都コペンハーゲンは度重なる集中豪雨を受け、2011年に「気候適応計画」を策定。都市の「吸水」能力を高めるため、貯水池を備えた公園の整備や、雨水を通すための穴が開いた「気候タイル」を道路に敷くなどの方策を試みている。

中国各地では「海綿城市(スポンジシティー)」構想を掲げ、水の流れを管理し洪水リスクの低減に取り組んでいる。

スイス独特の洪水リスク

こうした国々と比べると、スイスの水害対策は遅れが目立つ。スイス連邦環境局(BAFU/OFEV)が保険業界の協力を得てスイス初の全国的な地滑りハザードマップの開発に着手したのは、2018年のことだった。

スイス当局によると、スイスの1970~2008年の治水インフラ予算は年5000万~2億3000万フラン(約85億~390億円)で推移していた。08年から大幅に増え、2億5000万~4億フランが拠出されている。しかし、稀に起こる大洪水の被害を防ぐには程遠い額だ。連邦国防省国民保護局は2020年に発表した報告書で、非常にまれな洪水が100億フランを超える損害を引き起こす可能性があると警告した。

スイス連邦水科学技術研究所(Eawag)都市水害・水力情報学のジュアン・レイタオン氏は「スイスは周回遅れだ。海面の変化や河川の廃水、集中豪雨の影響を受けやすい沿岸のデルタ都市や港湾都市のある他の国と異なり、スイスの洪水は頻繁でも深刻でもないからだ」と話す。

だが気候変動はスイス独自の課題をもたらす。今後は降雪量が減る代わりに降水量が増えると予想されている。スイスは総面積1422平方キロメートル以上の湖沼と、総長6万5300キロメートルに及ぶ水路を抱える。国が放置すれば、降水量は容易に自然の貯水量を超えることになる。

スイスの都市や集落の「成長痛」も都市型水害のリスクを増大させている。人口増や都市化に歩調を合わせて建物・インフラ建設を進めなくてはならない。世界銀行によると、スイスの都市部人口は1960年から2022年にかけてほぼ倍増した。現在、人口のほぼ4分の3が都市部に住み、国の経済活動の8割が都市部に集中する。

メルヒナウを調査したアイヒャー氏は、「かつては草や土に覆われていた地域がコンクリートやアスファルトで覆われるようになり、大雨の行き場がなくなって洪水が発生する」と説明する。「農業の集約化や機械化、機械の大型化により土壌の目が詰まり、『スポンジ効果』が減退した。その結果、降雨の大部分を吸収する地表から水が溢れ出しやすくなった」

都市部に人口・インフラが集中したことで、水害のもたらす経済的損失は増大している。連邦環境局の広報ロビン・ポエル氏によると、スイス人口の2割が川や湖に近く洪水の危険が高い地域に住んでいるという。雇用の3割、物的資産(8400億フラン相当)の4分の1もこうした地域に集まっている。

発生確率と想定される被害の大きさを踏まえると、「水害はスイスが抱える主要リスクの1つだ。洪水対策は最優先課題となっている」とポエル氏は話す。

治水の管轄は?

スイス政府が治水インフラへの投資を拡大する一方で、学界からは従来のアプローチでは都市型水害に十分対応できないとの指摘が上がる。都市型水害と戦うための新手法の研究が進む。

ベルン大・モビリア自然リスク研究所が2018年に立ち上げた「洪水リスクイニシアチブ」は、洪水警報ツールに加え、水量の増加と後退が住民や職場、建物、道路にどのような被害を与えるかを試算するツールを開発している。

イニシアチブに参画するベルン大学のアンドレアス・ツィシュグ教授は、「スイス全土の想定される洪水被害を、ご近所レベルまで初めて視覚的に捉えられるようになった。いつ、どこで、どのくらいの人数が避難を必要とするか、いつどこで道路が寸断されるかもわかる」と説明する。地域の消防団や保険会社、物流企業などがリスクコミュニケーションや訓練、作戦の計画に活用できるという。

Eawagのレイタオン氏らは2019年、局地的な都市型水害リスクを低減するための排水装置「CENTAUR」を開発した。既存の排水システムに簡単に設置でき、高度な計算技術と流水制御を使って洪水リスクが高まると管内の水量を最適化する。

これまでにポルトガル第4の都市コインブラや英国のいくつかの自治体が設置したが、スイスに導入例はない。スイス当局や保険会社に売り込んだものの失敗。レイタオン氏は、当局が慎重な背景には治水事業の管轄の複雑さや、多くの都市が持つ文化財を保護する必要があるためだとみる。「革新的な機器の導入は極めて難しい」

ドイツやオーストリアなど他の連邦国家と同様、スイスの水害対策は連邦・州・自治体の各レベルで縦横に責任が分散されている。水管理や水力工学で新手法を取り入れれば、都市計画やエネルギー、自然保護など幅広い分野に影響が及ぶ。

進展もある。いくつかの都市は、洪水を軽減・監視するための実証事業を始めている。2020年にはチューリヒ応用科学大学の協力を得て、チューリヒ西部のグリーサーライン通りが「スポンジシティ」を真似て改修された。この事業は年内に完了予定だ。

メルヒナウに流れる川には目に見える変化があった、とアイヒャー氏は語る。村は2021年、川の氾濫リスクを軽減するため4つの貯留施設の建設や河道の拡幅など、包括的な治水計画に400万フラン超を投じることを決めた。「間に合わないとしても、全くやらないよりましだ」

編集:Virginie Mangin/gw英語からの翻訳・追加取材:ムートゥ朋子、校正:大野瑠衣子・上原亜紀子

© swissinfo.ch