厳しい食生活とドルショップ、禁断症状【バルセロナを破ったサッカークラブのある独裁者の街へ】(4)

「独裁者」が去って14年、2003年に再び訪れたブカレストは、カラフルで明るい雰囲気に包まれていた。©Y.Osumi

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、独裁者が健在だった頃…。

■肉を買うチャンスは「1か月に一度」

「物不足」については、私とサワベ・カメラマンの「食生活」を紹介すれば足りるかもしれない。

「ホテル・ブクレスティ」は、私たちの3食をしっかりと保証してくれていた。だが夕食のためにホテルのダイニングルームに行き、ウェイターが持ってきたメニュー(ルーマニア語と英語の併記だった)を見て「これ」と言うと、「今日はそれはありません」。「ではこれ」と指さすと、「申し訳ありませんが、それもありません」。「では何があるの?」と聞くと、「今日はこれだけです」と1つの料理を示すのだ。

こうして、私たちは毎晩固い肉を煮込んだようなものを食べた。しかし、こうした「外人用ホテル」に滞在していた私たちは十分以上に幸運だったのだ。一般の人々が肉を買うチャンスなど、1か月に一度あっただろうか。パンさえ、あんな行列をつくらなければ手に入らなかったのである。

だが、そんななかでも、政府の高級役人やチャウチェスク一家たちは、ぜいたく三昧の暮らしをしていたらしい。「ドルショップ」というものがあったのである。アメリカドルの現金を持って行きさえすれば、肉でもパンでも野菜でも、何でも買うことができたのだ。

私たちもドルの現金はかなり持っていた。だが、ドルショップに行くのはためらわれた。同じように、私たちのホテル前を四六時中、徘徊しながら私たちの姿を見かけるとすうっと寄ってきて「公定レート」よりはるかに高いレートでドルの現金を買い取ると声をかけてくる連中も無視した。トヨタカップの取材に来て、当局とトラブルを起こすなんてまっぴらだったからだ。

■「禁断症状」頼みの綱は五つ星ホテル

サワベ・カメラマンの唯一の渇望は、「コーヒー」だった。ホテルのメニューには「コーヒー」があり、それを頼んだのだが、彼によれば飲めたものではなかったという。「代用コーヒーだろう」と私は思った。日本でも戦時中に小麦粉をこがしたものを「コーヒー」と称して飲ませていたと聞いたことがあった。おそらくそのようなものだったに違いない。

ルーマニアがいくら農業大国であると言っても、コーヒーの栽培はできない。輸入するしかない。ソ連への巨額の負債を返済するためのドルを、そんなものには使えない。だから市場にはない。ただし「ドルショップ」にあるのは当然である。

一計を案じた私は、「インターコンチネンタル・ホテルで昼食を食べよう」と提案した。アメリカ系の五つ星高層ホテルである。私の大学時代の友人が勤める日本の大手商社など、外国企業のオフィスは、このホテルの下層階に集中していた。「あそこに行けば、きっとコーヒーが飲めるぞ」と、「コーヒー切れ」の禁断症状を示しつつあるサワベ・カメラマンを励ました。

食事が終わり、私たちはメニューを開いて「コーヒー」を注文した。しかし、ウェイターは冷酷に「ありません」。サワベ・カメラマンの落胆ぶりは、ひどかった。

そのとき、メニューを見ていた私の目に大文字が3つ並んだ言葉が飛び込んできた。「NES」とある。「これはネスカフェじゃないか」「そうかもしれませんね」「ネスカフェでもいい?」「もちろん!」。私は「ではこれ」と、メニューを指さした。だがやはり、ウェイターは冷酷だった。

「残念ですが、それもありません」

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