「北海のライオン」「北陸の帝王」「不死身の人」「モロッコの辰」…47都道府県「伝説のヤクザ」【東日本編】

北海道「南海の松」松田武嗣

暴力、恐怖、カネで地元の政治、経済、社会を支配した “昭和のドン” たち。勢力は50年で1割となり、山口組分裂抗争は10年めのいま、規格外の生き様を見せた侠(おとこ)たちを紹介する。

「60代以上のヤクザなら “伝説” と呼ばれる親分のことは、自分の組の人物以外でも、よく知っているよ。自分らが若いころに一線で活躍した姿を見ているし、逸話はよく聞いていたからね」

そう話すのは、関東在住の暴力団関係者だ。全国で2万人ほどといわれているヤクザ人口だが、昭和30~50年代の「任侠全盛期」には、20万人を超え、後世に名を残す大物が多数、存在した。

今回、ヤクザについて多くの著書を持つ山平重樹氏の協力のもと、都道府県別の「伝説の侠」たちを調査した。伝説といわれるヤクザには共通点があると、前出・暴力団関係者が語る。

「まず、自分の組のために体を張る人間であること。それに、人としての魅力があり、違う組のヤクザからも『あの人のようになりたい』とあこがれられること。また、そうした親分は、組員だけでなく、堅気にも人気があるものだ。ところが現在は、暴対法、暴排条例が徹底され、ヤクザであるだけで違法状態になる。肩身の狭いいま、ヤクザの世界でこれから “活躍” すること自体が厳しい……」

それでも “伝説” は、語り継がれる。本稿では「東日本編」をお届けする。

(北海道)

●「南海の松」松田武嗣(生年不詳~1993年)

戦時中、室蘭市の日本製鋼所の労働者だった松田は、同製鋼所の先輩から「南海の松」と命名され、愚連隊を組織した。1945年、仲間とともに乗り込んだ青函連絡船内で、函館の競輪選手の一行と乱闘事件を起こし、一人を殺害してしまう。この一件で、「南海の松」の名前は一気に広まった。警察に踏み込まれた博打場からただ一人逃げ、指名手配されながらも逃亡を続けた。後の逮捕は、警察の全国合同捜査による逮捕第一号となった。

●「北海のライオン」石間春夫(1930~1990年)

夕張郡長沼町出身。神奈川県横須賀市久里浜の海軍対潜学校を卒業後、14歳で戦地に。復員後、地元に戻って建設会社・石間組を創業し、愚連隊を組織した。勢力を拡大した石間は「北海のライオン」と恐れられるようになる。それまでの北海道は独立したテキヤ組織ばかりだったが、「いずれ広域組織が北海道に来る」とみた石間は、四代目山口組入りを決め、初代誠友会総長に就いた。以来、道内のヤクザの勢力図が塗り替えられ、「北海道のヤクザ史を変えた男」といわれるようになった。

(青森)

●ヤクザから三沢市議になった男/西村春男(生没年不詳)

終戦直後、三沢市内で米兵による婦女子への暴行事件が相次いでいた。そのため、義憤に駆られた西村は、一人で米兵に殴り込みをかけた。処罰されることを覚悟しての行動だった。進駐軍は米兵の罪を認め、西村の殴り込みを不問に付す。さらに米軍とのつながりができた西村は、米軍の物資を大量に放出させ財を成した。後に、三沢市の商工会議所の役員、さらに三沢市議も務めた。

(岩手)

●渡辺教育総監暗殺未遂事件に関与/星 辰太郎(1902年~没年不詳)

東京盛代連合会の名誉最高顧問を務め、東北神農界の最長老として知られた実力者。若き日に、テキヤによる渡辺錠太郎教育総監暗殺未遂事件に関与、その名は歴史的な関連文献に登場する。奇しくも渡辺教育総監は1936年の二・二六事件で暗殺されたが、星たちの暗殺計画はその直前、同年1月のことだった。星たちと二・二六事件の青年将校との関連性はなく、テキヤたちの計画は彼らなりの“義”に準じてのものだった。事件は未遂に終わり、星たちは逮捕された。渡辺教育総監が天皇機関説擁護者であったことへの反発が動機ともいわれる。

(秋田)

●「秋田のドン」「東北のドン」佐藤儀一(1928~2002年)

19歳のときに恐喝で逮捕されて以来、前科は10犯以上にも及ぶ。1959年、秋田県本荘市に佐藤組を旗揚げしたのは30歳の若さでのことだった。以来、毎日のように喧嘩、抗争を繰り返し、極東会系佐藤会は東北きっての武闘派組織として恐れられた。佐藤は「秋田のドン」「東北のドン」と呼ばれるようになり、青森などにも勢力を拡大していった。その脅威は秋田県警が「県内最悪の暴力団」と認定、壊滅作戦に乗りだしたほどだった。

(宮城)

●「仙台の不良の神様」吉田 武(生年不詳~1957年)

大正生まれの吉田は戦後、西海家というテキヤ組織に仙台で入門。地元で「不良の神様」と呼ばれ、その名を轟かせた。ダンスホールやキャバレーなどの用心棒、パチンコの景品買いという現代ヤクザ流のシノギをいち早く確立。また、北海道と東北の大同団結を呼びかけ、双葉同人連盟という親睦団体の結成に成功している。無類のおしゃれ好きでもあり、そのダンディぶりは仙台で際立っていた。

(山形)

●「愚連隊の元祖」万年東一(1908~1985年)

山形県飽海郡(あくみぐん)で生まれた万年が、一家で上京したのは1919年。神田の商業高校に通っていたころから学生愚連隊として名を馳せ、喧嘩は無類の強さを誇り、「愚連隊の元祖」といわれた。1938年3月には、社会大衆党・安部磯雄を襲撃する事件を起こし、戦中は召集されて中国戦線に従軍。上官には逆らい、部下には慕われるなど、さながら勝新太郎の主演映画『兵隊やくざ』のようだったという。戦後、右翼団体である大日本一誠会を設立。また、全日本女子プロレスの初代会長も務めた。

(福島)

●東北初の山口組直系組織/木村茂夫(1927~1992年)

会津若松市で生まれ、同市を活動拠点とした愚連隊を結成した。すぐに頭角を現わすと奥州会津角定一家に誘われた。奥州会津角定一家は会津若松を本拠地とする博徒系組織で、大正時代に創立された名門だった。五代目総長に就任した木村だったが、高知の三代目山口組直参である豪友会中山勝正会長(のちの四代目山口組若頭)との獄中での出会いが縁で、三代目山口組田岡一雄組長から盃を受け、山口組の直系組織として加入した。これにより、東北初の山口組直参組長が誕生したのだった。

(栃木)

●北関東最大組織「親和会」設立/小松澤 繁 (生年不詳~1984年)

地元・栃木の名士の息子ながら、博打と遊蕩三昧で財産をすべて食い潰したほど、放蕩の限りを尽くしたといわれる。老舗の栃木一家を再興し、初代会長に就任。1964年、「上州に大町あり」といわれた兄弟分の光京家一家初代の大町利市総長と結び、栃木、群馬、茨城の博徒一家を束ねて北関東最大組織となる親和会を結成し、その初代会長に就いた。1972年、親和会は住吉連合に加入した。

(茨城)

●「不退の軍治」藤田卯一郎(1906~1968年)

戦後に「関根組にあらずんば人にあらず」といわれた関根組の右腕として「不退の軍治」の異名で陣頭指揮を執っていたのが、藤田会長だ。関根組が解散させられると、1953年に藤田は松葉会を発足させる。1959年に同会を政治結社として改めると、発会式には自民党議員2名を含む2500人が駆けつけた。博徒系団体の親睦連絡組織・関東会では初代理事長に選出され、関東全域に影響力を及ぼす実力派親分だった。

(群馬)

●「不死身の人」牧野国泰(1921~2018年)

「上州博徒の元祖」といわれる田中代八により結成された北関東大久保一家の十代目総長を経て、松葉会会長を継承。長期にわたり辣腕を振るった。一方、「不死身の人」としても知られる。60歳を過ぎてから睾丸、前立腺、直腸、大腸、声帯とがんを患い、5度の手術で寛解したが、院内感染による病いと腸閉塞を併発。腸閉塞は手術不可能と診断されたが、医師に直談判し手術を強行した。術後2週間、意識は戻らず、医師は「助かる見込みはない」と宣告するも、3週間後に意識を取り戻した。奇跡の生還から3年後、松葉会五代目会長を継承した。

(埼玉)

●「芸能界の陰の顔役」岡村吾一(1907~2000年)

行田市出身。博徒系団体の親睦連絡組織・関東会の有力加盟組織である北星会の創設者として、また、戦前は、児玉誉士夫率いる児玉機関に加わって上海で暗躍。右翼、ヤクザ界はもとより、芸能界や政財界にも隠然たる影響力があった人物として知られる。戦後間もなく自身が東京・銀座で旗揚げした岡村文化部を中心に、1962年6月、埼玉・群馬に縄張りを持つ一家11団体で北星会を結成した。用心棒をまかされるなど、日本のショー・ビジネスの象徴だった日劇と深く関わったことが「芸能界の陰の顔役」と呼ばれるきっかけになったとされる。

(千葉)

●「任侠、人を制す」を体現/堀 政夫(1925~1990年)

長崎県佐世保市生まれ。10代後半には東京都港区に住み、賭場に出入りして愚連隊を排除していたという。渡世入りしたのち、戦後は芝居一座の興行主として東北一円を巡業。30歳で千葉県野田市に移り、中里一家の跡目を継いだ。住吉連合を結成し、総裁に就いたのは42歳のとき。その後、住吉連合会総裁に就任した。トップの身でありながら、移動は一人で電車。暴力ではなく和をもって組織を束ね、「任侠、人を制す」を地でいった親分として多数の信奉者がいた。葬儀では、2万人もの弔問客があふれ返った。

(東京)

●「銀座警察」「祐天寺の輝」高橋輝男(1922~1956年)

目黒、祐天寺界隈の不良少年の間で鳴らした高橋。戦後すぐに住吉一家に渡世入りしたのち、マスコミから「銀座警察」の異名をつけられる。由来は、不良外国人を一掃して銀座の治安を守り、法律では解決できないワルたちによる経済事件を暴力で解決するのが仕事だったからだ。銀座において、債権取り立てや会社乗っ取りグループの追及にあたり、“聞き込み”や“逮捕”“取り調べ”まで一手に引き受けた。「経済ヤクザ」の走りであり、貸植木業から映画製作、硫黄鉱山や青果市場の経営にまで携わり、1952年には大日本興行株式会社を創設。ボクシングの興行にも注力した。

(神奈川)

●「モロッコの辰」出口辰夫(1923~1955年)

戦後の横浜でヤクザ以上に勢いがあった不良青年たちのグループ「愚連隊」。そこで名を轟かせたのが出口だ。身長160cmに満たない小柄な体格ながら、ボクシングで鳴らした腕っぷしで喧嘩は敵なし。1対10でも相手にしたという。異名の由来は諸説あり、ゲイリー・クーパー主演の映画『モロッコ』に惹かれたことから、ともいわれる。賭場を荒らしまわり、負けが込むと懐ろから拳銃を取り出してカネを要求するなどの荒くれ者だったが、その時期に出会った稲川聖城に心服し、自らその配下についた。

(新潟)

●関東の博徒・テキヤ28団体を結集させた男/阿部重作(1895~1964年)

新潟に生まれ、神奈川県横浜市で港湾労働者をしていたが、住吉一家の客分の高木康太から盃をもらい、渡世入り。1948年に住吉一家三代目を継承。1956年、住吉一家の大幹部同士の内部抗争が起き、これを機に警察の取り締まりが強化される。この事態に動いたのが彼だった。組織の弱体化が叫ばれた1958年、住吉一家を中心に関東の博徒とテキヤなど28団体を結集させた前代未聞の連合組織・港会を結成した。

(富山)

●「カッパの松」松田義一(1910~1946年)

東京・新橋駅前の巨大利権をつかみとった風雲児。富山県氷見市に生まれ、幼くして東京に渡る。水泳が巧みだったことから、「カッパの松」と呼ばれたという。戦後、闇市が密集しながらも「ヤクザの空白地帯」となっていた新橋駅周辺を押さえたのが関東松田組だった。駅周辺の1300店の露天市場を掌握、組の勢力も2000人にふくれた。松田が次に見据えたのが、500店舗を収容する巨大マーケットの建設。しかし、計画がスタートしたちょうどそのころ、破門中の舎弟に撃たれて死亡。暗殺の真相は、いまだ謎のままだ。

(石川)

●「赤坂の天皇」「バカ政」浜本政吉(1917~1995年)

石川県に生まれ、住吉一家三代目の阿部重作組長の若衆となり渡世入り。多数の舎弟から慕われ、「浜本兄弟会」として親睦を深めた。住吉会最高顧問、ハマ・エンタープライズの社長を務め、東京・赤坂に住吉会本部を置いたため「赤坂の天皇」と呼ばれた。「若いころの『バカ政』の異名そのままに、負けん気と喧嘩の掛け合いは天下一品。どんなに形勢が悪くても強気一辺倒。崖っぷちでも突っ張りぬき、最後に大逆転するような人でした」とは、側近の弁だ。

(福井)

●「北陸の帝王」川内 弘(1924~1977年)

三代目山口組の三次団体組長ながら、直系組織に匹敵する400人の組員を擁した川内組組長。福井県三国町に生まれ、愚連隊のトップで鳴らしたのち渡世入り。愚連隊仲間と川内組を結成する。1963年、飛ぶ鳥を落とす勢いの菅谷政雄組長に惚れこまれて舎弟になると、勢力圏を京都、静岡、福島などにまで拡大させた。しかし、山口組直参入りを望む川内組長と菅谷組長の間に亀裂が生じ、1977年に破門される。同年、菅谷組傘下の男から2発の銃弾を浴び、死亡する。

(山梨)

●「甲府抗争」に勝利/川上三喜(生没年不詳)

横須賀で生まれ、戦後に予科練から復員するや、横浜伝説の愚連隊構成員の「モロッコの辰(出口辰夫)」のもとに身を投じた。出口の死後、横須賀一家の石井隆匡(後の五代目総長、稲川会二代目会長)に引き取られ、その一門に連なる。1962年8月、たまたま横須賀から甲府の若い衆のもとを訪ねていた川上たちと、地元最大勢力の加賀美一派との間でトラブルが勃発、「甲府抗争」へと発展した。この抗争に勝利した川上は甲府を制覇。長期刑を務めた後に、稲川会山梨一家を立ち上げ、初代総長となった。「モロッコの辰」の系譜を継ぐ最後の現役の親分として知られた。

(長野)

●極東会初代/関口愛治(1897~1967年)

日本最大のテキヤ組織・極東会初代の関口。生まれは上州だが、4歳で養子になった先が、長野県佐久市だった。1939年、兄弟分の尾津喜之助に不義を働いた高山春吉の殺害に関与(山形事件)。出所後、東京・池袋に拠点を置き、新宿へ進出を図った。新宿進出の手引きをしたのが尾津で、山形事件の恩義に報いるためだったといわれる。戦後から1950年代後半にかけて飛躍的に勢力伸長を遂げた極東会。その名の由来には、「オレたちは日本だけでなく、東南アジアへも商売に行く」という、関口の広大な理想があったといわれる。

(岐阜)

●空手、柔道の有段者の剛腕組長/清家国光(生年不詳~1963年)

錦政会岐阜支部長で新風組組長の清家は、空手四段、柔道五段という強者で、向かうところ敵なしの剛腕ぶりだった。人に頭を下げるのが大嫌いな、怖いもの知らずの武闘派だったという。彼に惨劇が起きたのは、1963年11月13日。故郷の熊本へ里帰りし、同市内のとある宗教団体の布教所で、熱心な信者であった清家が一心不乱に祈祷している最中のことだった。背後から3人のヒットマンが迫った。清家は7発の銃弾を浴び、射殺されたのである。30代半ばという若さでの死であった。

(静岡)

●稲川会初代会長/稲川聖城(1914~2007年)

1949年、熱海に縄張りを持つ山崎屋一家の跡目を継ぐと同時に興した稲川組が、稲川会の原点だ。以降、横浜愚連隊などの“エリート”たちが続々と傘下に入り勢力を拡大した。当時、東海地方を縄張りとしていた稲川組は、1959年、銀座に稲川興業の看板を掲げ、東京進出をはたす。さらに1963年、抗争を防ぐため、関東の博徒系組織が結集した関東会に参加したほか、山口組との関係良化に努めるなど、他組織との連携を図る。稲川会総裁として一代で大勢力を築き上げた稲川総裁は、2007年、都内の病院で息を引き取った。93歳の大往生だった。

(愛知)

●「東海のドン」河澄政照(生年不詳~1983年)

1967年春、平井一家八代目総裁の河澄政照は愛豊同志会を発足させて、豊橋ヤクザ界を統一。さらに1979年には愛知の3団体と運命共同会を結成、中京統一に向けて尽力し、「東海のドン」と呼ばれた。だが、志半ばの1983年7月、「中京抗争」で凶弾に倒れ、波乱の生涯を閉じた。全国の親分衆との交流も広く、「東海に河澄あり」と謳われる一方で、密葬には大勢の市民が駆けつけるなど、堅気にも人望のあった親分として知られる。

取材・協力/山平重樹(やまだいらしげき)
1953年山形県出身 法政大学文学部卒業後、フリーライターとして活躍。『伝説のヤクザ』(竹書房)、『極私的ヤクザ伝』(徳間書店)などアウトローの評伝を多数執筆

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