【イスラム教の合理性】 なぜ一夫多妻制を認めるのか?「豚肉食、偶像崇拝禁止の理由」

画像:サウジアラビアのメッカにあるカーバ神殿 public domain

イスラム教は、日本から見ると地理的にも文化的にも遠い存在であり、一夫多妻制や食事の制限など、日本人には馴染みのない独特の習慣が多くあります。

そのためイスラム教は「理解できない宗教」というイメージを持たれがちです。しかしよく考えてみると、宗教というのは基本的に合理的なものであり、その時代に合わせて人々が生きやすくなるためのルールや指針として存在しています。

そしてイスラム教は極めて合理的な宗教です。一見すると違和感を覚えるような教義にも、きちんと説明できる背景があり、中東の厳しい砂漠環境を生き抜くために必要なルールや知恵が反映されています。

イスラム教の習慣や教義を正しく理解するためには、その成り立ちや背景をきちんと知ることが大切です。

現代社会はグローバル化が進み、多様な文化や価値観が混在する時代となっています。このような社会を生きていく上では、自分とは異なる文化を認め合い、互いに尊重し合うことが何よりも重要なのです。

目次

一夫多妻制の目的は

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イスラム教の「一夫多妻制」は、一見すると男性の欲望を肯定しているだけのように思われるかもしれません。

しかしその背景には、砂漠特有の過酷な環境があります。
砂漠では食料が極端に少ないため、各部族間で奪い合いが起こり、戦争が頻発していました。その結果、男性の死亡率がとても高くなり、未亡人がどんどん増え続けていったのです。

当時の社会では、女性一人で子供を養いながら生計を立てることは困難でした。そこで未亡人の生活を支えるために、一夫多妻制が肯定されるようになったと考えられています。

ただしイスラム教では、一夫多妻制を無制限に認めているわけではありません。金持ちの男性がどんどん妻を増やしていくことは、共同体の団結力を低下させる恐れがあるため、妻の数は4人までと制限され、それぞれの妻を平等に愛することが義務付けられているのです。

飲酒禁止やラマダーン

イスラム教の厳格な教えにも、合理的な説明があります。

飲酒禁止」に関しては、酒の原料である穀物が砂漠ではとても貴重な食糧であることに関係しています。

砂漠では穀物が極端に不足しており、各部族間で奪い合いが起こり戦争の原因になっていました。当時の砂漠民には、穀物を加工して酒を作るような余裕はなく、穀物はそのまま食べる必要があったのです。もし誰かが酒を飲めば、その分、誰かが飢えることになってしまいます。穀物を酒作りに回すのではなく食用に限定するために、飲酒が禁止されたと考えられています。

豚の食肉禁止」にも、同様の理由があります。
牛や鶏などとは異なり、豚は野生には存在せず、人間が家畜として飼育する必要がある動物です。

豚を肥育するためには大量の穀物が必要になります。しかし砂漠では穀物がとても貴重なため、豚に与えるような余裕はなかったのです。

また豚は雑食性であるため、牛などの草食動物に比べて危険な寄生虫がいる可能性が高いことが知られています。そのため食べる際には火を通さないといけません。砂漠では木が少ないため、昼間は薪を使わずに熱した砂で調理することが多かったそうです。このような調理法では、豚肉を生焼けにしてしまう危険性が高く、食あたりを起こす可能性があります。

こうした背景から豚は「不浄な生き物」とされ、イスラム社会では食肉として禁止されるようになったのです。牛は草を食べ、鶏は虫を食べるために穀物を与える必要がなく、それに加えて乳や卵も食べられるので、食料として問題がないとされました。

断食月(ラマダーン)

イスラム教では、1年の内で30日間にわたって行われる「断食月(ラマダーン)」があります。この期間中は日中の飲食が一切禁じられ、唾液を飲み込むことさえ許されません。暑い砂漠地域では、かなり厳しい修行となります。

断食月の目的は、皆で飢えと乾きを体験することで貧しい人の気持ちを理解し、団結力を高め、弱者の立場を知ることにあります。日中は皆で飢えに耐え、日が落ちてから皆で食事をすることで、共同体の精神が最高潮に達するのです。

ただし病人や妊婦など体力的に厳しい人は免除されており、あくまで無理のない範囲で行うことが大切とされています。

断食月は、ただ苦しむだけにある教義ではなく、弱者の気持ちを知るための教えなのです。

偶像崇拝の禁止

画像:マリア像。文字が読めない人々への布教活動に偶像は積極的に使用された public domain

イスラム教では、「偶像崇拝」は絶対に禁止されています。偶像を作ってしまうと簡単に派閥ができてしまうからです。

イスラム教は団結力を何よりも重視しているため、派閥の温床になりかねない偶像崇拝には厳しい態度で臨んでいます。教義に対する解釈を守ることで、イスラム社会の団結力が維持されているのです。

キリスト教は大きく分けると、カトリック、プロテスタント、正教会の3つの宗派に分かれており、さらに細かく見ていくと、英国国教会、ルター派、カルヴァン派、コプト派など、本当に多くの宗派が存在しています。

同様に日本の仏教も、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、一向宗、天台宗、真言宗など、とても多くの宗派に分かれています。

これに対してイスラム教では「スンニ派」と「シーア派」の2つしか存在せず、聖典コーランも1つしかないため、教義はほぼ統一されているのが特徴です。

その要因として「偶像崇拝」の有無が大きく関係していると考えられています。

偶像崇拝は、もともと教えを広めるために行われてきました。言葉だけでは理解が難しい教義も、キリスト像やマリア像、仏像などがあれば視覚的に理解しやすくなるからです。

キリスト教では、布教の過程で読み書きのできない知的水準の低い農民に合わせるため、偶像崇拝を事実上容認するようになりました。その一方、ユダヤ教は一貫して偶像崇拝を禁止しているため、宗派は基本的に1つだけです。ユダヤ人の知的水準の高さも関係していると考えられています。

このように、信者を爆発的に増やせる偶像崇拝ですが、もちろん欠点もあります。

「神」を視覚(偶像)化したり、抽象的な教えを形にしてしまうと、人によって解釈の幅が生まれる可能性があります。その解釈の違いは教義にも影響を及ぼし、結果として宗派の乱立を招いてしまうのです。

キリスト教や仏教で多くの宗派が生まれた背景には、偶像崇拝の容認が大きく関係していると言えるでしょう。

上記で見てきたようにイスラム教の厳格な教えにも、現地の環境に適応するための合理的な背景があることがわかります。中東の厳しい砂漠環境で長年にわたって人々が生き抜いてきた知恵が凝縮された宗教なのです。

約1400年間、変化しないイスラム教

画像:イスラーム教の聖典である『コーラン(クルアーン)』public domain

イスラム教の聖典であるコーランは、7世紀に成立して以来、約1400年もの間ほとんど変化していません。
イスラム教が誕生した当時は貧しい砂漠地帯でしたが、現在では豊かな産油国も多く、社会情勢は大きく変化しています。そのため現代社会にそぐわない教義も数多く存在しています。

一方のキリスト教は、時代の流れに合わせて教義解釈を変化させてきました。古代には奴隷制を容認し、中世では農民に対する教えを重視し、近代に入ると商人に適応した教義解釈を行うなど、社会の変化に柔軟性を持って対応してきたのです。

しかしイスラム教は、厳しい砂漠環境を生き抜くために団結力を何よりも重視し、教義の統一を徹底してきました。仲間割れを避けるためには教義解釈の違いを許容できなかったのです。その結果として、時代が変化しても教義を柔軟に変えることができなかったとも言えます。

その中でも問題なのが、原理主義的なイスラム解釈です。原理主義者たちはコーランの記述を文字通り、一言一句そのままに受け取ります。たとえばコーランに「異教徒は殺せ」と書かれている場合、原理主義者はコーランを額面通り解釈し、実際にテロ活動という形で実行に移してしまうのです。

原理主義者による偏狭な教義解釈と、それを理由に正当化されるテロ行為が、イスラム教のイメージを大きく歪めてしまっていると言えるでしょう。

イスラム教が本来持っている合理性や寛容性のイメージが損なわれ、一部過激派の活動によって「理解しがたい宗教」「恐ろしい宗教」というレッテルを貼られてしまっているのが現状です。

しかし本来のイスラム教には、現代社会にも通用する合理性が数多く含まれています。

「喜捨」や「相互扶助」の精神は、貧富の格差が拡大する現代社会において重要な概念です。また断食月のような行事は、自己を見つめ直し、神への感謝を示す機会ともなります。さらにイスラム教が重視する団結力は、個人主義が蔓延る中で、共同体意識を取り戻すための手掛かりにもなり得るでしょう。

私たちに必要なのは、一部の過激派の行動にとらわれることなく、イスラム教が本来持っている教えに目を向けることです。

平和と調和を重んじる宗教であることを改めて認識し、相互理解を深めていくことが、今の時代にこそ求められているのではないでしょうか。

参考文献:ゆげ塾ほか(2019)『ゆげ塾の中国とアラブがわかる世界史【増補改訂版】』ゆげ塾出版

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