船は全速力で衝突し、4分で沈んだ…修学旅行中の小中学生100人が犠牲 “紫雲丸事故”から69年「生き長らえて申し訳ない」生存者が語る“命の重み”

濃霧の中「ほぼ全速力」で船同士が衝突し、修学旅行生など168人が犠牲となった“紫雲丸事故”から、11日で69年が経ちました。戦後の復興の最中、人やモノが”大量輸送”されていた時代に起きた、この事故。高齢となった生存者が、今の若者たちに伝えたい、「命の重み」とは。

4つの学校の100人の子どもが犠牲に…全速力の船が衝突した“紫雲丸事故”

事故は、1955年5月11日の朝、当時、岡山県と香川県を結んでいた旧国鉄の「宇高連絡船」同士が衝突したものでした。

高松(香川)を出港した客船の「紫雲丸」と、宇野(岡山)を出港した貨物船「第三宇高丸」が、午前6時56分、香川県の高松市沖で衝突。「紫雲丸」が沈没し、乗員・乗客168人が犠牲(1人行方不明)になりました。

事故当時、現場付近は深い霧に包まれていて、「紫雲丸」は約10ノット(時速約18.5km)、「第三宇高丸」は約12.5ノット(時速約23km)と、ともに“全速力”で航行していた中での衝突事故でした。

沈没した客船「紫雲丸」には、島根、広島、愛媛、高知の4つの小中学校の子どもたちが、修学旅行で乗船していました。子どもの犠牲者は、168人中、100人。高知市の南海中学校の生徒は28人が犠牲となりました。

事故から69年が経った11日、南海中学校では追悼慰霊式が行われ、遺族や、当時船に乗っていて助かった同級生、現在の中学校の生徒らが、犠牲者を偲びました。

「初めて四国を出る」という生徒多く犠牲に…衝突し、4分後に沈んだ紫雲丸

▼南海中学校 廣瀬啓二校長 「失意の中で命を失われた皆様に、深く哀悼の意を表します。当時、南海中学校の生徒の多くが、四国・高知県を出るのが初めてで、117人の修学旅行生は、この旅行を心から楽しみにしていたことと思います。当時の生徒にとって、この旅行は『夢』『憧れ』『希望』そのものだったと思います。事故から69年という長い年月が経ちましたが、今後、南海中学校で生徒や教職員が入れ替わっていったとしても、この事故の記憶や生徒たちの思いを受け継いでいってほしいです」

当時、南海中学校の修学旅行は、九州へ向かう班と関西へ向かう班の2つに分かれていて、このうち関西へ向かう班の生徒たちが事故に遭いました。当時、生徒として船に乗っていて助かった葛目堯一さんが、取材に応じてくれました。

▼葛目堯一さん 「本当に、この式典に参加するたびに、当時のことを思い出すばかりですね。ほかの事は考えませんね」

事故後、「紫雲丸」が沈むまでの時間は、わずか”4分”。その最中、生徒たちを助けに海へ飛び込んでいった引率教諭もいました。葛目さんは、その様子を鮮明に覚えているといいます。(この教諭は後に救助)

▼葛目堯一さん 「その先生が、私の目の前を泳いでいったことは、何年経っても思い出されます。本当に、きのうのことのように思い出します」

多くを語らず、絞り出すように事故の様子を話してくれた葛目さんの目には、涙が浮かんでいました。

戦後の復興の最中、人やモノが”大量輸送”されていたこの時代。「技術・利便性・採算性が優先され、人命や安全への対策が軽視されていた…」とも言われます。なぜ、このような事故が起きてしまったのでしょうか。

春先から霧が濃くなる海域…紫雲丸はこの前にも事故を繰り返していた

大型連絡船同士のこの事故は、戦後10年が経とうとしていた時代の出来事。戦後の復興の最中、人やモノが“大量輸送”されていた時代で、「技術・利便性・採算性が優先され、人命や安全への対策が軽視されていた…」とも言われています。

さらに、瀬戸内海は春先から霧が濃くなる海域で、第六管区海上保安本部の管内では、霧の中での海の事故が、去年までの10年間で69件発生。このうち約65%が4月~6月に集中しています。

「紫雲丸」も、1947年の進水以降、数回にわたり、犠牲者を伴う事故を起こしていて、南海中学校の生徒が犠牲になったこの事故で、最も大きな被害が生じました。

紫雲丸事故を教訓に“瀬戸大橋”が…全国の学校には“プール”も

当時の時代背景や、瀬戸内海特有の地理的条件などが重なり、失われた28人の生徒たちの命。この事故をきっかけに、四国と本州を結ぶ「陸のルート」を建設する機運が高まり、1978年に建設が始まったのが「瀬戸大橋」です。そして、「紫雲丸事故」から33年となった1988年、「瀬戸大橋」が開通しました。

また当時、「多くの子どもたちが『泳ぐ』経験が少なかったことも事故の原因だ」と言われ、この事故をきっかけに、全国の小中学校に「プール」が建設されるようになったといいます。

「申し訳ない」と語る生存者…伝えたい“命の重み”

事故後、さまざまな施策がとられましたが、事故の生存者である葛目さんの胸には、犠牲になった同級生への「ある思い」が残り続けています。

▼葛目堯一さん 「同級生はみんな、若い時に命を亡くして…。私なんか、もう、この年になるまで生き長らえてきましたけど、本当に『申し訳ない』と思っております。本当に…」

同級生に対する「申し訳なさ」。69年間、こうした思いを抱きながら、葛目さんたち生存者も、80代になりました。生存者の高齢化に伴って、事故の風化が懸念されますが、葛目さんは、今の南海中学校の生徒や若い人たちに、伝えたいことがあるといいます。

▼葛目堯一さん 「自分の『命』は、本当に大切にしていってください。本当に…」

あの日、悲惨な事故から生還した葛目さんのこの一言には、“重み”がありました。
南海中学校では、現在も、毎月11日の「月命日」の前後に、生徒たちが「月例祭」を開いています。学校では「今後も、事故の悲惨さや記憶を伝え続けていく」としています。

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