不調の岩隈久志を立て直した近鉄コーチの言葉「最初は3年間、陸上部だぞ」【平成球界裏面史】

試合終了後、ベンチに座ったままの岩隈久志(2007年8月)

【平成球界裏面史 近鉄編52】近鉄が消滅した平成16年(2004年)には12連勝を含む15勝を挙げ、アテネ五輪日本代表にも選出される投手となった岩隈久志。ただ、このシーズンから度々、肩痛に悩まされるようになった。

平成17年(05年)は楽天球団初代開幕投手を務めて完投勝利を収め、球団第1号の白星を記録するなどエースとして活躍。だが、戦力難のチームにあって勝ち星は9個にとどまった。一方で敗戦数は15でリーグワースト。肩痛の影響もあり本来の投球を見せることはできなかった。

さらに平成18年(06年)は持ち味の二段モーションが禁止に。その上に肩痛も相まって6試合の登板にとどまり、1勝2敗という成績に終わった。フォームの固定にも時間がかかり「あの頃の自分はどの方向性に進んでいるのか分からなかったくらいです」と話したほど、苦悩を味わった。

平成19年(07年)には2年ぶりに開幕投手を務めることにはなったものの、成績は安定しなかった。本拠地開幕戦では背中の張りで試合開始直前に登板回避という事件もあった。さらに5月中旬には左脇腹の肉離れを起こして戦線離脱するなど、ストレスの溜まるシーズンとなった。

8月23日のロッテ戦(千葉マリン)では当時のバッテリーコーチであり堀越学園の先輩に当たる野村克則と降板後のベンチ内で小競り合いとなる事件も勃発した。無失点で迎えた4回に味方の失策絡みで3点を失い、そのまま降板。試合中盤までロッカールームにこもっていたことを叱責されたのだが…。実は家族の体調不良などのため、電話連絡を取っていたという行き違いだった。

この時期の岩隈は故障、成績不振、二段モーションの禁止など受難続きで精神的に不安定な部分もあったのだろう。このシーズンは16試合に登板し5勝5敗、防御率3・40。シーズン終了後の10月には右肘の軟骨除去手術を受けるなど、崖っぷちの状態だった。

「何か変えなきゃいけない。何とかしなきゃという気持ちでした。『岩隈はもう終わったな』みたいな空気を感じることもありました。このままでは応援してくれるファンや、支えてくれいる家族に恩返しできていない」

この時期、岩隈が技術的に立ち返ったのは近鉄二軍時代に指導を受けた久保康生コーチの教えだった。

「『最初は3年間、陸上部だぞ』と言われたくらいで基礎体力の強化に努めていたんですが、1年目に投球時の体の使い方を教えてもらったことでコントロールが激変しました。シンプルに表現するならマウンドからホームプレートまでの距離18・44メートルを、自分なりにいかに短くするかという考えを教えてもらった」

心がささくれていた時期、近鉄時代の基本を思い出すことで自分を取り戻した。その結果が平成20年(08年)に結実することとなる。

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