相馬藩、半谷新助の死(5月12日)

 手元に、『おおくまの民話』(双葉郡大熊町図書館刊)という本がある。

 この本の前書きには、「大熊町の民話をていねいに聞き起こして『民話苦麻川』、『民話野がみの里』、『民話野上川』を編[へん]纂[さん]されました故吉田農夫雄、故松本幸一両先生の貴重な遺産をもとに、子どもたちへ語り継いでいくことを目的として、大熊町ふるさと塾の皆さんの全面的な協力」によって、平成十九年三月に、この本が発刊されたと記されている。

 その後、この本は町の人たちに広く読まれ、また、町内の小、中学校での学習にも活用された。

 ところが、四年後の平成二十三年三月十一日、東北地方太平洋沖地震が発生し、その後の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故によって、大熊町は全町避難となり、町の人たち全員がふるさとの地を離れた。

 大震災の後、この本を「町内の自宅に置いてきてしまった」、「もう一度読みたい」との声が多数寄せられ、平成三十年、この本は再版された。

 大熊町の人たちにとって、この本はなくてはならないもの、そして、ふるさとを思い出させるものになっているのだろう。

 ところで、この本のなかに「悲[ひ]風[ふう]平[へい]道[どう]地[じが]原[はら]」という話が所収されている。慶応四(一八六八)年七月二十八日、大熊町や富岡町が戊辰戦争の戦場になった時の話だ。

 「上[ちゅ]手[う]岡[か]村[むら]平道地原から富岡川を挟んだ赤木村さかけて、突如、銃声があが」り、その後、「戦いは激しくなってきたんだど。やがて、浜街道の夜の森台場・新田町、小[お]良[ら]ケ浜方面まで戦火が広がってきたど」、「午後の二時ごろになって、本道方面はすでに敵に突破されで、銃声はだんだんと北さ移って、やがて、熊駅の方から黒煙が立ちのぼっていだど」、「平道地原一帯も、もう乱戦となって」、相馬藩の兵隊は「大川原さ向かって敗走していったど。半谷新助の所属していた木幡小隊もばらばらになっていたど。朝からの激戦に疲れきった新助が周囲を見回すと、まわりには味方の姿はどこにもいながったど。新助も退[さが]ろうと思ったとたん、数人の敵兵がバラバラっと飛び出してきて、抜[ぬき]身[み]の刀を手に手に新助をとりまいたど」、「新助は手に持った火縄銃を投げ捨てで、腰の刀を抜いだど」、「新助を取り囲んだ若い敵兵達は一斉に新助に斬り込みかかったど」、「一昨日の七月二十六日、広野の二ツ沼付近の戦闘で木村小隊に所属して出陣していた息子の健吾が討[うち]死[じに]したどいう、知らせを受けていた新助はすでに自分も死ぬのを覚悟しての戦いだったどいうごどだ」。

 二日前、半谷新助は息子の健吾を広野の二ツ沼付近の戦いで失った。そして、この日、新助は死を覚悟して、戦いに臨み、平道地原で自らの命を散らした。

 この日、新助の心の内は、一体、どのようなものであったのだろうか。それを考えると、とても悲しくなる。

(夏井芳徳 医療創生大学客員教授)

© 株式会社福島民報社