反骨を秘めながら、抗せず媚びず…大河ドラマで「ロバート秋山」演じる〈藤原実資〉はどんな人物? 中宮定子の晴れの日に姿を見せなかった「道長の反発」

(※写真はイメージです/PIXTA)

吉高由里子さんが主演する大河ドラマ『光る君へ』(NHK)が放送中です。物語は、吉高さん演じる、のちの紫式部“まひろ”と柄本佑さん演じる藤原道長の間の特別な絆を軸に進んでいきます。兄の娘である定子に仕えることになった道長ですが、定子の立后当日の儀式を欠席してしまいます。本稿では、平安文学研究者の山本淳子氏による著書『道長ものがたり』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、道長が抱いていた道隆への思いに迫ります。

定子、中宮となる

10月5日、道隆は定子を天皇の正妻である「中宮」とした。これを「立后」という。このわずか10日ほど前、立后の噂を耳にした藤原実資(さねすけ)は、その日記『小右記(しょうゆうき)』に「驚奇(きやうき)少なからず」と記した。「皇后四人の例、往古聞かざる事なり(天皇の正妻である后(きさき)が四人という例は過去に聞いたことがない)」という理由からである(『小右記』正暦元年9月27日・30日)。

ここで、やがて右大臣に到るこの人物・藤原実資(957〜1046)と彼の日記『小右記』について紹介しておこう。実資は道長の又従兄弟。彼の祖父・藤原実頼(さねより)(900〜70)は摂政太政大臣まで務めた人物で、道長の祖父・師輔(もろすけ)の兄にあたる。実頼の系統は藤原北家(ほっけ)でも「小野宮家(おののみやけ)」と呼ばれ、嫡流(ちゃくりゅう)の矜持をもち、莫大な資産を有していた。

実資は祖父の養子となって小野宮家を継承、彼から見れば分家筋にあたる兼家や道隆、さらに道長の栄華の中で、常におもねることがなかった。

『平安時代史事典』は彼を評して「反骨を秘めながら、抗せず媚びず、常に道理を旨として中道を歩み、着実に重きを加えていったことは偉とすべき」とまで記している(執筆=関口力(せきぐちつとむ))。

『小右記』は彼が60年以上にわたりほぼ毎日記し続けた漢文日記で、内容の詳細さ・確かさに加え、歯に衣を着せぬ物言いがリアルタイムの空気を感じさせてくれる一級資料である。

さて、この正暦元年、実資は34歳で参議。たった4歳年上だが既に摂政・内大臣の道隆には遠く水をあけられ、9歳年下で権中納言の道長に対してもその後塵を拝していた。だが、おかしなことはおかしいと言う、それが実資である。彼が「驚奇」といぶかしがったのは、その頃「后」と呼ばれる天皇の正妻の座が埋まっており、定子の入る余地がないということだった。

定子を中宮にするために道隆が取ったアクロバティックな手段

実は制度上、「后」と呼ばれる地位は三つあり、中宮(皇后)と皇太后と太皇太后をいう。

最も単純に言えば、中宮は今上天皇の、皇太后は前の天皇の、太皇太后はさらに前の天皇の正妻である。ただ后の地位は天皇とは独立していて、天皇の代替わりや死によって后が代わることはない。

つまり新しい中宮が立てられる時とは、后である3人の誰かが亡くなるなど何らかの理由で空席ができたタイミングしかない。そのため、天皇と中宮にずれが生じ、新しい天皇の御代(みよ)になっても中宮には以前の天皇の正妻が就いたまま、ということがあった。そしてこの時の状況がまさにそれにあたっていた。

加えてそこには別の理由もあって、皇太后には今上天皇の母がなるというルートも存在した。円融天皇の正妻としては后になれなかった詮子(せんし)が4年前の寛和(かんな)二(986)年、息子・一条天皇の即位によって皇太后にいわば「横入り」したため、中宮は先々代の円融天皇の正妻である遵子(じゅんし)、皇太后は詮子、太皇太后は円融天皇の前の冷泉天皇(950〜1011)の正妻・昌子(しょうし)と、三つの「后」は満席状態だったのである。

そこで道隆は、アクロバット的な方法をとった。中宮に「皇后」という異名があることを利用し、中宮の地位を二分割して、現中宮を皇后、定子を新中宮として立后させたのである。

これを「二后冊立(にこうさくりつ)」という。このことの非常識さは、現代日本の総理大臣に置き換えてみればわかりやすいかもしれない。「総理大臣」に「首相」という異名があることを利用して、現総理とは別にもう一人首相が立つ。あり得ないことで、混乱は目に見えている。しかし道隆は、「中宮」と「皇后」でそれをやってのけた。実資が「聞いたことがない」と記す通り、前代未聞のことだった。

この時、一条天皇のキサキはまだ定子独りきりで、しかも天皇は定子を溺愛していた。敵のいない間にNo.1の座を確保しておきたい。そう考えた道隆は、強硬手段をとったのである。

中宮大夫・道長

それだけではなかった。道隆は定子の立后の日取りを正暦元年10月5日とした。7月2日に兼家が亡くなってからほんの3カ月にしかならない。当日、新中宮・定子のために設けられた役所「中宮職(ちゅうぐうしき)」の人事を聞き、実資は日記に記した。

「長官の『大夫』は中納言・道長、長官補佐の『権大夫(ごんのだいぶ)』は道綱。どちらも喪中ではないか」(『小右記』同年10月5日)。彼は強い違和感を覚えたのだった。

『栄花物語』の記し方は、さらに際立っている。立后の日をまだ兼家が病中だった6月1日とし、「こんな折でなくても」と世人が非難したとするのである。おそらく事実誤認ではなく、道隆政権の不適切さを過大に描くため、ひいては次の道長の世の正しさを強調するための、意図的な改ざんだろう。道長の栄華を記すという目的のもとには、大胆なフェイクもお構いなしというのが『栄花物語』の姿勢なのである。

さらに『栄花物語』は、中宮大夫に任ぜられた道長の思いに踏み込む。

中宮大夫には、右衛門督殿(うゑもんのかみどの)をなし聞こえさせ給へれど、こはなぞ、あなすさまじと思(おぼ)いて、参りにだに参りつき給はぬほどの御心ざまも猛(たけ)しかし。

(中宮大夫には、右衛門督(うえもんのかみ)・道長殿を就かせなさった。だが道長殿は「これは何だ、全く心外だ」とお思いになって、役所に寄り付くことすらなさらなかったとは、そのご気性の勇ましいこと)

(『栄花物語』巻三)

新中宮・定子のために設けられた中宮職の長官に、定子の叔父であり摂政・道隆の末弟である道長を就け、定子に仕えさせる。道隆はこの人事を、道長を抱き込む作戦として思いついたのかもしれない。

最近は源氏の左大臣の後援などを得て粋がっているようだが、まだ年若である。父・兼家も亡くなったばかりだし、ここは長兄の自分が目をかけてやろうじゃないか、と。道隆にとって道長はその程度の存在だったのではないか。だが、道長は反発した。

そしてこの点においては、『栄花物語』の書き方はフェイクではない。実資の『小右記』がそれを裏付けている。定子の立后当日、兼家の遺した東三条院でにぎにぎしく行われた儀式について、実資は次のように記している。

大夫、重服(ぢゆうぶく)に依(よ)り、見えず。

(中宮大夫は、喪中なので、列席しなかった) (『小右記』同日)

中宮としての門出という定子にとって最も晴れがましい日、彼女の側近になることを命じられた道長は、この人事を吞んだ。だが父の喪中ということを理由に、姿を見せなかった。道隆への異議申し立てと受け取られても仕方がない。

山本 淳子

平安文学研究者

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