誰が見ても「完璧な家族」だった私たち。でも誰も知らない秘密があった

アメリカ到着から約1カ月経った、生後16カ月頃の筆者と両親。1960年6月にイリノイ州で撮影された

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昨年まで、私はイリノイ州のシカゴ生まれだと言っていた。学校書類から大学や職場の申請書、そして医療記録にさえも、私の出生地は「イリノイ州」と記載されていた。

でも、それは嘘だ。

実際は、私は会ったこともない女性のもと、香港で生まれた。そしてそれから60年以上経った昨年まで、自分が養子であることを秘密にしていた。

何十年もの間、私は夫と3人の子どもたちと共に、郊外で良い暮らしを送っていた。その間ずっと、暖炉の上に飾られている写真に映る、魅力的で優秀な夫婦の間に生まれたと人々を信じ込ませていた。両親が私を養子にしたことを恥じていたように、私も養子であることを恥じていた。

中国の伝統的な文化的信念に縛られ、両親は私と兄に、養子だということを秘密にするよう誓わせた。不妊や養子縁組に対する恥やスティグマは、両親にとって耐え難いものだった。

孔子とその信者たちは、女性の最大の務めは男児を産むことだと信じていた。私の母は、息子はもちろん、娘さえ産むことができなかった。

私の生みの親は『売春婦』で、私は「恥ずべき子ども」として生まれたーー。周りはきっとそう思うだろう、と母は私に言い聞かせ、養子であることを秘密にするよう説いた。でも本当は、母は私の生みの親のことを知らなかった。母が知っていたのは、自分が「女性として不足している」として見られることへの恐怖だけだった。

香港の孤児院からアメリカへ

1959年、私をこの世に産んでくれた女性は、私をカゴに入れ、イギリス統治下にあった香港の繁華街、西洋菜街(Sai Yeung Choi)近くの階段の踊り場に置き去りにした。私は生後4日目だった。通りがかった人が警察に通報し、私は香港最大の非政府系孤児院に連れて行かれた。私は発見された通りの名前にちなんで、Yeung Choi Szeと名付けられた。

養子縁組の仲介業者が送った3枚の私の白黒写真は、アメリカ中西部に住む中国系夫婦が私を家族に迎えると決心するのに十分だったようだ。

母は、私がアメリカに到着した日のことを詳しく話してくれた。1960年6月、両親はシカゴのオヘア国際空港で他の6組の夫婦と共に、養子に選んだ子どもたちの到着を待っていた。私は飛行機から最後に降りてきた赤ちゃんで、病気で痩せ細り、明らかに栄養失調だったという。

両親は食べ物と住居を与えてくれたが、私は親から子が受けるべき養育や愛情、関心に飢えていた。中国の国外との戦争や内戦によるPTSD、冷戦時代のアメリカ中西部郊外に住む数少ない中国人家庭での生活、そして高学歴の父の満たされないキャリアの夢により、両親は心に傷を負い、私を精神的に支えることができなかった、もしくは、支えようとしなかった。

この写真を含む3枚の写真を見て、両親は私を養子にすることを決めた

私は幼い頃から真実を知っていた。ある日、母がゆっくりお風呂に入っていた時、私は勇気を出して、母のお腹に刻まれた、長くギザギザした赤い線について尋ねた。すると母はこう言った。

「私の体の一部は摘出されていて、赤ちゃんを授かれなかった。だからあなたとお兄ちゃんを養子に迎えたの」

その時の母の表情から、私はこれ以上質問してはいけないと悟った。

小さい頃から、母を怒らせるのが怖かった。母はよく感情的に不安定になり、私を必要とする時だけ私に関心を示した。急須にお湯を入れたり、掃除機をかけたりという母からの要求に私が背を向けようものなら、母はベッドに引きこもり、すすり泣きながらこう言った。

「私が本当の母親じゃないから愛せないんでしょ」

私は母を抱きしめながら、「私の母親はお母さんだけだよ」と必死に愛を伝え、すぐに要求に応えた。

愛してもらうために必死だった

1969年、両親は1950年代にアメリカに移住して以来、初めて台湾に帰国した。両親は1949年に中国本土から台湾に逃れてきた200万人の中にいた。

台北の空港に着くと、20人ほどの親戚や友人が出迎えてくれた。興奮した北京語のおしゃべり、香り良い花束、長く強い抱擁の中、1人の女性がかがみ込んで私に言った。

「お母さんに似てるね」

私は微笑んで頷いた。両親が入念に練り上げた「物語」を、台無しにするわけにはいかない。

高校時代のある土曜日の午後、学校で同じ新聞部に所属するある少年とテニスをした。彼は背が高く自信に溢れた3年生、私は分厚いメガネをかけたオタクっぽい1年生だった。試合の後、私たちは彼の家に行っておしゃべりしたりテレビを見たりした。

それから数日間というもの、母は私を叱りつけ、私が生みの母のように売春婦になると叫んだ。自分で選んだわけではない過去のせいで、私は欠点だらけで汚い人間なのだと、自分を恥じた。

小学3年生の頃から、両親...特に父からの愛と関心を得るため、優等生になろうと全力を注いだ。

父は50ドルだけを手ににアメリカに移住し、週末は皿洗いの仕事をしながら有機化学の博士号を取得した。父は私に愛情を見せず、私は愛してもらうために必死だった。

「教育だけは、誰も君から奪うことはできないーー」

研究科学者としての仕事の疲れを癒すためにウイスキーを飲みながら、父は何度もそう言っていた。

1977年、私は高校の卒業生総代に選ばれた。両親は、自分たちの友人や職場の上司や同僚のために卒業パーティーを開いた。私の友人は招待されなかった。1週間後、父の関心は再び、兄と、父自身の満たされないキャリアへの嘆きに向けられた。

1964年シカゴで両親と

隠し続けた秘密

私はその後も、学業や仕事、さまざまなことに努力を続けた。奨学金を得てトップクラスのMBAプログラムに入学し、素晴らしいビジネスキャリアを築いた。母が選んでくれた素敵な中国人とも結婚した。でも両親が生きている間、そして亡くなった後も、私は家族の秘密を守り続けた。

同時に、私は大きな羞恥心を抱えていた。私が養子であることを中国系アメリカ人のコミュニティが知ることを考えると、ゾッとした。多くの人が古い信仰のもと、私が不道徳な母親から生まれたのだろうと考えると思ったからだ。私の生みの母親が不道徳だと思われるなら、それは私が汚れていると思われることになる。

正直に言うと、頭が良く気が利き、魅力的な夫婦の「娘」と見せかけるのを楽しんでいたときもある。父は当時の中国人男性には珍しく身長が180センチあり、特許をいくつも持っていた。立派な中国人の家系に生まれた母は、大きな茶色の瞳、艶やかにカールした髪、そして誰もが憧れる色白の肌をしていた。母に似ていると言われると、私は強く頷いたものだ。

他の誰の目にも、私たちは完璧な家族に映っただろう。私たちの秘密は、家族以外誰も知らなかった。

その後、私は夫と子どもたちに、自分は養子であると話したが、他の人には秘密にするよう頼んだ。それほどまでに、自分の秘密は暗く深く、墓まで持って行くと本気で思っていた。

60代で初めて抱いた疑問

2020年、私は自分の秘密の過去を振り返り始めた。他の多くの人同様、コロナ禍は家に閉じこもっていたので、自分の人生の始まりから現在までを考える時間がたくさんあった。

両親が不妊や養子縁組について恥じる気持ちを、なぜ私は内面化し続けたのか...その疑問を抱いたのは、61歳になってからだった。

他の養子たちも、私が生涯悩まされてきた自尊心の低さ、不安や焦りなどの感情に苦しんできたのだろうか。自分のアイデンティティや拒絶、帰属意識に疑問を抱いているだろうか。

私は養子縁組について、そして自分自身についてもっと知るために数カ月を費やした。養子縁組に関する本を読み、Facebookで見つけた養子当事者のグループにも参加した。

それまで、兄以外の養子当事者と話をしたことがなかったが、今では、電話やZoomを通じて、彼らと痛み、憧れ、喪失感を分かち合った。

すると突然、孤独感が和らいだ。もう自分の真実を隠す必要はないと思った。何も隠さず、本当の自分の人生を送りたいと思っていたが、ついにその時が来たのだ。

秘密を打ち明けたら...

昨年6月、私はNew York Times紙で自分の真実を公表した。

長年の友人たちは、私が養子縁組についての短い文章をシェアした時、びっくりしていた。友人も知らない人も、多くの人が私の話を読んで泣いたとSNSに投稿した。

1997年、ミシガン州の自宅で両親と

記事が掲載されて1カ月後、兄がコロナ禍の大掃除中に見つけた埃だらけのファイルをくれた。そこには「イヴォン(筆者)の養子縁組」と書かれていた。62歳になった私は、両親が生前に意図的に隠していた書類をようやく読んだ。

黄ばんだティッシュのように薄い紙の書類に、私の「始まり」の真実が書かれていた。私の人生となった、最初の15カ月もの間、孤児院で弱り過ごしていた小さな赤ちゃんを思い、胸が痛み、泣いた。

ファイルにあった医師の報告書には、私は「平均的な知能、発達は遅れている」と、別の報告書には、ソーシャルワーカーの署名と共に「この子には良い家庭が必要だ」と書かれていた。

私が養子に入った家庭が「良い」かどうかには議論の余地がある。母は深刻な精神疾患を患っており、感情的にも肉体的にを私をはけ口にした。父は長くうつ状態だった。両親はお互いを、そして私を避けるため、本を読んだり、昼寝をしたり、テレビを見たりしていた。

最近、母のせいで何十年も疎遠になっていた幼なじみと再び繋がることができた。彼女は私のことを、いつも膝の上に乗ってくるおとなしい子で、遊ぶ時でさえ音を立てなかったと言った。

確かに、私は子どもの頃ずっと静かだった。負担になるのが怖かったのだ。たまに文句を言ったり質問したりすると、両親はこう言い返した。「養子にしなかったら、今頃あなたはどうなってた?」と。両親はこうした言葉を兄に言うことは決してなかった。兄は両親にとって「家名を継ぐ息子」という中国の伝統的な責務を果たしたからだ。

もう恥じない

4月は養母の10回忌に当たる。父はその数年前に亡くなっている。私は自分の過去だけでなく、両親のことももっと理解したかった。なぜ私と兄に嘘を強いたのか。

私は中国の歴史、文化、社会学の本、回想録や小説を読みあさり、中国文化の専門家や両親と同じ時代に中国に住んでいた人々に話を聞いた。今なら、両親は伝統と周りの状況、そして時間の産物であったのだと認識できる。

私はこれまでずっと、「良い母親」を探してきた。失った母、そして手に入れた母の代わりとなる女性を必死で探し求めてきた。

空を見上げ生みの母とよく話をする8月の散歩中、私は実母が私を置き去りにしたことに感謝していることに気づいた。人通りの多い階段の踊り場に置き去りにしてくれたのは、私を愛してくれていたからだと思う。そのおかげで、私は充実した人生を送ることができた。

そして、両親が私を選んでくれたことに感謝している。

私はもう養子であることを恥じていない。生みの母を見つけることはできないかもしれないけど、この人生の旅路で、私自身を見つけたい。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

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