【新連載】小川紗良の「かけだしの映画たち」 『システム・クラッシャー』の凄まじい破壊力

さまざまな作家の、初期作を観るのが好きです。青さのなかに、その人の「好き」や「衝動」や「欲望」が詰まっているから。また、自分もかけだしの作家のひとりとして、背中を押されたり、負けてられないと掻き立てられたりすることがあるからです。初期作は荒削りであったり、未熟さを感じたりするものも少なくありません。その洗練されていない完璧さに、私は胸が高鳴ります。この連載では、作家の初期作を取り上げながら、そこにしかない熱や揺らぎに目を向け、耳を澄ませます。(小川紗良)

第1回『システム・クラッシャー』

スクリーンからものが飛んでくるのではないかと、何度か身構えた。それくらい、凄まじい破壊力を携えた映画だった。まさに、この作品自体が「クラッシャー」。息をひそめて見守りながら、心のどこかで「壊してしまえ」と暴れる少女に願いを託す。

本作を手がけたノラ・フィングシャイトはこれまでドキュメンタリー作品で注目を集め、フィクションの長編監督作としては今回が1作目となる。2014年、ホームレスの女性についてのドキュメンタリー撮影時に出会った14歳の女性が、「システム・クラッシャー」として保護施設に拒否された事件が本作製作のきっかけとなった。社会制度からこぼれ落ちてしまう存在に対する眼差しと憤りが、監督を映画の道へといざなう。

主人公のベニーは9歳の女の子。幼少期に家庭で受けた暴力がトラウマとなり、どこへ行っても暴れてしまう。「愛着障害」というものがあるが、ベニーの姿はまさにそれだった。幼少期に身近な大人との安定的な関係のなかで、十分に愛着を育むことができないと、子どもの情緒や対人関係に問題が生じる。ベニーは新たな環境に飛び込むとき、品定めするようにまわりをじっと観察し、警戒する。一方で、道ゆく知らない人に対して、過度に馴れ馴れしく接する。まわりの大人を試すように、悪事をはたらく。愛着を持った人に見捨てられないよう、「いい子」らしく振る舞ってみせる。ベニーはいつも、全身全霊で自分だけの「安全基地」をさがしていた。しかし、本来その場所になるべき最も身近な大人は、一向に迎えに来ない。

通学付添人のミヒャが現れたとき、観客の誰もが淡い期待を抱いただろう。「この人がベニーを救ってくれるかもしれない」と。実際、ミヒャはベニーに対して力を尽くす。発作を起こして搬送されたベニーを見守り、学校で暴れるベニーをなだめ、静養のため森で3週間ともに過ごす。特に森で過ごした時間は、ベニーの心をほどいた。電気もない、水道もない、暴れても叫んでも誰にも迷惑のかからない環境で、ベニーは思いっきり力を放ち、ミヒャは受け止め続ける。ベニーに必要だったのは、向精神薬でも閉鎖病棟でもなく、ありのまま受け止めてもらえる経験だった。

ベニーの大きな変化を感じる瞬間が、映画の中で二度ある。一度目は、ベニーがミヒャの名を呼ぶときだ。頑なに周りの大人の名を呼ぼうとしなかったベニーが、森で焚き火を囲む夜、不意にその名を口にする。ちらちらと瞬く灯火のなかで、その呼びかけがふたりの間の愛着をより強いものにする。二度目は、ベニーがミヒャの子どもに顔を触れられたときだ。幼少期のトラウマから、顔を触られるとパニックを起こしてしまうベニー。しかしこの瞬間だけは、朝方の静けさのなか朗らかな時間が流れる。相手が赤ん坊だったこともあるだろうけれど、きっとベニーのなかでミヒャとの信頼関係が築けていたことも大きい。重要な変化の瞬間を、派手に脚色せず、限りなくささやかに描いた演出に、誠実さを感じた。

しかし、安らぐのも束の間、私たちは一度損なわれた愛着が子どもに及ぼす影響の大きさを痛感する。そう簡単に、ベニーを救うことはできなかった。走り去ったベニーはついに行き場を無くし、森の中で凍える。夢の中でたどり着くのは、小さな犬小屋。もはや、人間界に彼女の心の置き場所はなかった。

「自分なら救えると、思いあがってしまった」

ミヒャがそう語るとき、私たちも同じ感情に苛まれる。ミヒャならばきっと救ってくれると期待を寄せ、思いあがっていたことに気付く。誰かに手を差しのべるとき、人は気付かぬうちに優位に立っていることがある。

「救ってあげよう」「寄り添ってあげよう」などという気持ちは、相手を自分の支配下に置く構造を生み出しかねない。支配構造の中で、「救ってあげよう」という気持ちは「救ってあげたのに」という利己的な感情を育む。絶えず「自分は通学付添人だ」「これはただの教育措置だ」と立場を主張していたミヒャでさえも、ベニーとの境界線を一歩踏み越えてしまった。人が人を救うのは、容易いことではない。支援とは、自分の無力さを自覚するところから始まるのかもしれない。

では、いったい何をどうすれば良いのか。この映画を見つめるうちに、本当に壊れているのはベニーではなく、社会の構造だと気付かされる。ベニーも、母親も、施設の職員も、みな社会の歪みのなかにいる。どうしようもなくこぼれ落ちながら、懸命にもがき続けている。その真ん中で、ベニーはパッションピンクのジャンパーに負けないほど、頬を紅潮させ暴れ回る。「愛してる」のかわりに「死んじまえ!」と叫ぶ少女を、圧倒的強さで演じ切ったヘレナ・ツェンゲル。社会への眼差しを少女の視点で見事に昇華させた、監督のノラ・フィングシャイト。このふたりの勇敢な女性による強烈ストレートパンチが、世の中に一発食らわせるデビュー作だった。ベニーよ、どこまでもぶち切れろ!

(文=小川紗良)

© 株式会社blueprint