「“死にゲー”が出来ない人はゲーマーを名乗るべきじゃない」という滅茶苦茶すぎる暴論に思うこと

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今日はそんなみんなに、死にゲーの話をしようと思う。死にゲーってのは簡単に言えば難易度が高くてクリアが困難と定義されるもの。

人を選ぶジャンルであり、根気と、時間と、ねちっこい習性がないとなかなかクリアすることはできなかったりする。

とはいえ僕が小学生ぐらいの頃。今から30年ぐらい前にはこういうゲームは既にあったし、まかり間違って誕生日のプレゼントとかでそういうゲームを買ってもらうと、非常にこう、難儀した。

難しいから投げ出したいけど、他にするゲームがなかったり。あるいはせっかくプレゼントで買ってもらった手前、親の顔を立てて一応クリアを目指して奮闘しなければならなかったり。

こういうことが何度かあると、死にゲーにある程度の耐性というか、免疫がつくようになる。しかし死にゲーをクリアできること自体が人間性になんら箔付けをするものでは決してない。しょせんゲームはゲーム。クリアしようとしまいと、本チャンの人生にはほとんど影響を及ぼさないのだが、それが分かってなさそうな人もいて……。(文:松本ミゾレ)

「死にゲー出来ない奴ってマジで頭悪そう」という頭が悪そうな書き込み

先日、5ちゃんねるに気持ちの悪いスレッドが立っていた。「死にゲー出来ない雑魚はゲーマー名乗るべきじゃないと思うんだが」というのがそのスレッドのタイトル。まずどの立場の人が言ってるのか気になるが、そんなことはさておいてスレ主の主張がまた香ばしい。

「死にゲー出来ない奴ってマジで頭悪そう 社会でもまともに生きていけないだろうな」

ね? 凄いでしょ。およそ社会でまともに生きている人が紡ぐような文字列ではない。死にゲーをクリアした経験があるってだけでここまで傲慢になれるなんて、この人は今までどんな人生を歩んできたんだろう。気になってしまう。

まさかゲームでしか成功体験を積んでないなんてことはないんだろうけど、実際そういう奴いるしな。これに対して「好きなだけ名乗ってろよ」という反応があるが、スレ主はすかさず「フロム死にゲーすら出来ない雑魚がなんか言ってるわ」と痛々しい対応。誰もフロム・ソフトウェアの話なんかしていないのに。

「ゲームばっかりやってると、こういう一方通行の会話しかできないモンスターになってしまうのだ」というステレオタイプの偉い人が指摘しそうな、モデルケースみたいな悪い言動である。

さらにスレ主は「俺含めてそうだけど、死にゲー好きのゲーマーは高学歴高所得者が多いよ」とも主張している。そんな因果関係が死にゲーにあるとは初耳だ。僕の同級生の死にゲー好きは高校2年の時から勉強についていけなくなってレンタルビデオ店でバイトしていたので、こっちの認識とは随分乖離がある。

ゲームは心の栄養素だけど、ゲームのスコアを持ち出して現実でマウンティングをするような人には、ゲームそのものがまだ手を出すには早いコンテンツのような気がしてならない。

死にゲーは年を取るとしんどい

ま、気持ちの悪い主張をかます人のことはこの辺で一旦捨て置いて、ここからは死にゲーについてもう少し話をしていきたい。前項でも名前が挙がっていたフロム・ソフトウェアは僕も大好きで、初代プレステ時代から色んなソフトに触れてきた。

難易度が高く、制約が多いのはフロムゲーの特徴だけども、ここ最近は国内のゲームメーカーとしても屈指のクオリティのタイトルを量産するので、僕がこの会社の名前を知った当時よりはだいぶ立ち位置も良い方向に変化している。

フロムゲーにも言えることなんだけど、死にゲーは敵の思わぬ配置に不意打ちを食らって死ぬ、というケースが結構ある。『エルデンリング』にもそういう局面があったが、死角からの攻撃って怖いよね。しかしこの死角に潜む敵の位置を把握しておけば、次からは対処できる。

死にゲーの中には、このように敵の配置や攻撃のパターンを把握して対応することが必須のものもある。いわゆる、覚えゲーという奴ね。

このような特徴が色濃いゲームは記憶力が物を言うので、そこが弱いとクリアは難しいのかもしれない。ただ、好きこそものの上手なれとも言うし、没入して遊んでいると割と覚えゲーには脳みそも対応してくれるものだから、存外何とか傷だらけになりつつもクリアできたりもする。

むしろフロム系の死にゲーで一番厄介なのは、この覚えゲー要素が強いダンジョンなりステージを踏破した挙句、そこに待ち受ける純粋に強い敵を倒さないとならない局面がしばしばある点。

僕の場合は『アーマード・コア ラストレイヴン』でのジナイーダ戦が脳に焼き付いている。ジナイーダという登場人物がラスボスとなるルートで戦う、彼女の乗機・ファシネイターの強いこと強いこと。たしかファシネイターとは別ルートでも戦えるが、比較にならない鬼畜具合だった。

まず本シリーズでは伝統の苦行である前半の中枢侵入ミッション。これがしんどかった。
様々なトラップや敵を回避し、慎重に中枢に進む必要がある。いわゆるここが覚えゲー部分に相当する。

そしてやっと中枢に到達したら、砲撃を回避しつつその機能をシャットダウンしなければならない。この後に登場するのがファシネイターで、ここからは覚えゲーではなく純粋に死にゲーの境界となる。何度挑んで何度やられたか知れない。

50回ぐらいはリトライしたはずだが、もう最後の方は中枢侵入ミッションはかなりさっさとこなせるようになっていた。で、やっとファシネイターを倒せたのは、たしか相手の脚部を破損させることに成功したとかで機動性を低下させたのが決め手だったと記憶している。
この好機を逃すともう勝てない気がしたので、脳汁ダバダバ流しながら一気にケリをつけることに成功した。

したんだけど、その後に隠しボスとして登場する青パルには手も足も出ず、結局勝てないまま、いつしかソフトも紛失した。

若い頃の僕は運良くファシネイターを倒せたけど、同じことを今年40になる僕ができるとも思えない。同様に、死にゲーが得意な人がそうでない人に同じことを強いるのも無謀と感じる。死にゲーが上手な人も、いずれ加齢によって腕がマジで鈍るんだから、あんまり自分のスキルに驕っちゃダメだよね。そもそもゲームは楽しんでやるもので、他人にマウントするためのツールじゃない。

難易度の高い死にゲーをクリアできようと、できまいと、遊んでいるうちに四苦八苦していれば何かしらの思い出は作れる。結果ではなくこの経緯こそ、死にゲーを面白くするエッセンスになっているような気がする。

ただ、現在ではわざわざ死にゲーに固執しなくても、他にも面白いゲームが多数ある。ゲーム以外の娯楽だって多岐にわたるので、死にゲー一筋でこれを趣味にするって奇特な人は昔より少ないんじゃないだろうか。ってか昔もそんなに多くなかったし。

そんな中で「死にゲーをクリアできる人は高学歴」みたいなおかしなことを主張する人が出ると余計普通の人は引いてしまうだろうから、何と言うか、勘弁してほしいっすね! どのジャンルにも言えることだけど、声のデカい無礼なオールドファンが一番コンテンツには害悪なのだ。

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