王貞治氏に“直電”でアピール…日本一の翌日に3度目の戦力外、月10万円で目指したNPB

NPB3球団でプレーした藤田宗一氏【写真:片倉尚文】

巨人を自由契約…藤田宗一氏は、斎藤隆氏の勧めで鷹・王会長に連絡を取った

38歳で巨人を自由契約となり、入団テストでの古巣ロッテ復帰も叶わなかった中継ぎのスペシャリスト藤田宗一氏は、元メジャー投手の助言でプロ生活が延びた。「背中を押して頂きました。自分は何か困った時には、いつも貴重な出会いがある。有り難いことです」。野球人生を支えてくれた恩人たちへの感謝を忘れることはない。

2010年の暮れ、途方に暮れていた藤田氏は3学年上の斎藤隆氏と食事をした。斎藤氏は1991年ドラフト1位で横浜(現DeNA)に入団してからら2015年楽天での引退までNPB2球団、ドジャースなどメジャー5球団を渡り歩いた右腕だ。「トレーニングの先生が同じだったご縁で、一緒に自主トレをしていました。僕は“隆塾”の一期生なんです」。

進路の窮状を嘆くと、斎藤氏は各球団の陣容を調べ始めた。ソフトバンクに目を止め、「まだ枠が空いてるぞ。電話しろ」と命じた。

藤田氏は驚いた。「誰にするんですか? と聞いたら『王さん(王貞治球団会長)だ』と。自分なんかが王さんに電話するなんて無理でしょう……と返しても『駄目だーっ、するしかない。お前、野球やりたいんだろ!』って一喝されました」。

数日後、王氏に直接電話をかけて状況を説明した。2006年の第1回WBCでは日本代表監督とメンバーの間柄。年が明けて折り返しがあった。ソフトバンク側は藤田氏の肩を不安視していた。「王会長は『投げられるのか、育成契約でも大丈夫か。こっちに来てみて状態がよければ支配下にする』と仰いました」。1月に育成枠で入団し、キャンプを経て3月に晴れて支配下登録を掴み取った。

2011年オフに鷹から戦力外、独立L群馬で兼任コーチ…待った朗報

「王さんにはWBCもソフトバンクでもお世話になった。会長がホークスの監督だった2001年の球宴にも選んでもらっていた。王さんに迷惑をかけたくない。その一心で、あの時のキャンプは頑張りました。今でも毎年キャンプに挨拶に行ってます」。

ソフトバンクは2011年、日本一。藤田氏は19登板で防御率9.64だった。「空気的に大体分かるじゃないですか。日本シリーズ制覇のビールかけの後、仲の良い杉内(俊哉=現巨人投手チーフコーチ)に『俺、球団から明日連絡があるんちゃうか?』と話をしたら『ここまで来て絶対ないですよ』と言ってくれたのですが。次の日です。『あー、やっぱりな』でした」。自身3度目の戦力外通告を受けた。

しかし、藤田氏は挫けない。「体はまだまだ元気だったので」12球団合同トライアウトに参加した。またまた古巣ロッテが接触も「何があったのかポシャリました」。他のNPB1球団からも打診を受けた。選手枠の関係で即獲得とはいかないが、トレード期間中まで体調を維持しつつ待機するよう指示された。

期限は7月いっぱい。NPBの可能性を引き寄せるべく、独立リーグ「ルートインBCリーグ」群馬で兼任コーチとして活動した。「アパートを借りました。給料は月に10万円前後で、生活のための持ち出しも多かったですね」。並行して肉の卸業者で包丁捌きなどの修行を積んだ。「どのみち、あと1、2年で選手としての限界はくる。何か身に付けておかないと。昼間に野球をやって夜は修行です」。セカンドキャリアの選択肢も広げた。

朗報は届かず6月半ば、藤田氏は現役生活にピリオドを打った。「子供と嫁さんに『やめるわ』と伝えました。いつかは野球をやめる時が来るのは、自分でも分かってましたから」。身長173センチの小柄なサウスポーは、全て救援で600試合登板。しっかり足跡を残した。

救援一筋600登板、中継ぎの矜持…“降格”の表現に「何言ってんねん」

藤田氏はその後、東京・赤坂で焼き肉店を5年間経営し、接客もした。2017年には長崎・島原中央高校の後輩で、ケニア代表監督を務める廣谷弥咲氏の依頼でアフリカを訪問し、指導した。2022年からはロッテのアカデミーのコーチとして小中学生を教えている。

リリーフ一筋で生き抜いた誇りがある。「今でも中継ぎに“降格”という表現が使われたりしますよね。何言ってねん、と。記者の方に『絶対にそう書かないで』とお願いしたことがあります。出番が読みにくかったり等々、しんどい役割。中継ぎは中継ぎの人しかできないことをやっているんです」。

「先発」の記憶がファームで1度あるという。ソフトバンク時代の2011年7月15日、中日戦(ナゴヤ)。「その日は先発ピッチャーがいなくて中継ぎ陣で回す試合でした。暑かったから『一番年上で体がキツイので、僕が先に投げて、ゆっくり休んでいいですか』と頼みました」。5回を2安打1失点(自責はゼロ)。ほぼ完璧に抑えた。

「実はそこでも中継ぎの準備のやり方で先発したんですよ。登板ギリギリまで投球練習をしないから、周りは『いつボール投げんねん』と心配してました。『あー大丈夫、大丈夫。俺はすぐ肩できるから』と言いました。中継ぎはいつもこんな感じで、いくので」

藤田氏は生粋のリリーバーなのだ。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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