「まだ生きていますか?」失意の夫を劇的に変えた亡き妻からの「手紙の内容」

晴美は53歳という若さでこの世を去った。

5年前に血液のガンが見つかり、余命3年と言われた晴美は必死に病気と闘った。余命より2年も長く生きてみせた。

一郎はそんな妻を愛し、そして感謝していた。

高校生のときに晴美と知り合い、幸運にも付き合えることになって、一郎はずっと妻のことを第一に生きてきた。まだまだ同世代の連中には亭主関白的な考えが色濃く残っているなかで、一郎は“バカ”がつくほどの愛妻家だった。

晴美は休みの日は必ず一郎をどこかに連れ出した。これといった趣味のない一郎は、楽しそうな晴美を見ているだけで幸せだった。

「私がいなくなったあと、あなたのことが心配だわ」

病床の晴美は色が消え乾いた声で毎日のようにそう繰り返した。お砂糖とお塩は右の戸棚の下の段。通帳は和室のタンスの上から2段目。お酒は1日1缶まで。お風呂掃除も週に1度はしてちょうだいね。

そうやって晴美は一郎の心配をしてばかりだった。一郎は自分がふがいないせいで、晴美を安心して眠らせてやることもできないのかと情けなくなった。

だから晴美が亡くなったとき、宣告された余命をはるかに伸ばし、自分のために生きてくれたことを感謝した。一郎は晴美が安らかに眠れることを祈った。

しかしやっぱり、どうしても悲しかった。

火葬場でかみしめた現実

「晴美、最後まで気丈でしたね。本当は、苦しいはずだったのに……」

火葬場で晴美を見送ったとき、晴美の友人である尚子が話しかけてきた。尚子の喪服のワンピースには、犬の毛がついている。最後の別れくらい、身だしなみを整えてくればいいのにと一郎は不満に思った。

「……そうですね」

「でも、晴美らしい最後でしたね。明るくて、優しくて……」

「……そうですね」

晴美とは仲が良かったのかもしれないが、一郎は軽くあいさつをしたことがある程度で、こうして中身のある話をちゃんと話すのは初めてだった。

「そういえば晴美がね、ずっと一郎さんのことを心配していたのよ」

「ですよね……」

とはいえ、一郎は何を話して良いのか分からなかった。尚子の言ってることは重々承知している。乱暴な言い方をすれば、言われるまでもない。尚子の甲高い声は、お前が心労をかけたせいで晴美が死んだのだと、一郎をとがめているような気がした。

1人になりたくて、その場を外して屋外へ出た。

吹いてくる風が冷たくて、一郎は自分がたった1人になった事実をかみしめる。

「そうか、もう晴美はいないのか……」

煙突から上がる煙は、のしかかるような曇天に吸い込まれていった。

俺は本当に、残念だ

本来なら初七日が終わると、仕事に復帰するはずだった。

しかし一郎は休職した。

仕事は晴美のためにやっていただけで、晴美のいなくなった今、なぜ働くのかが分からなかったからだ。

年下の上司は快く休職を認めてくれた。

大して仕事もできず、職場の空気を重くしているだけの一郎がいなくなることを喜んでいるかのように感じたが、元から職場になじんでいたとはお世辞にも言えない一郎には痛くもかゆくもないことだった。

他人との関わりなんてまっぴらだ。一郎にとって、仕事は晴美と生活していくためにするものでしかなく、やりがいなんてものを感じたことはない。職場はなれ合いの場所ではなく、晴美と過ごす時間を削る必要悪だった。

若いとき、上司から同僚たちと信頼関係を築けとしかられたこともあったが、一郎は前向きになれなかった。気付けば、もう一郎の居場所は会社にはなかった。

だがようやく仕事を休んでも、家にも、この世界のどこにも晴美はいなかった。一郎は記憶が色あせていくことを拒むように、晴美との思い出の場所を巡った。

さすがに旅行で行った場所まで足を伸ばそうとは思えなかったが、歩いて行ける範囲のところにも思い出の場所はたくさんあった。

週末に2人で出掛けた駅前のスーパー、コーヒーを飲んで休憩した喫茶店、散歩コースとして来ていた大きな池がある公園――。

ベンチに座り、自然豊かな景色を眺めながら他愛(たあい)のないことを話した。過ごしやすい春の日は陽だまりのなかで時折あくびをしたりしながら読書をした。

記憶のなかの日々はどれもあたたかで、優しく、黄金色に煌(きら)めいていた。

だが今は違った。冷たくてわびしい、灰色の風景が一郎の目の前に広がっていた。

スーパーは人が多くてうんざりだった。喫茶店のコーヒーも家で飲むものとの違いが分からなかった。公園も池の匂いが生臭く、落ち葉に混ざって地面に転がるゴミが目についた。

理由は分かっていた。

晴美がいたから、一郎の毎日は色鮮やかだったのだ。

「……俺は本当に、残念だ」

一郎はため息みたいにそう吐き出して、薄く笑った。

亡き妻からの手紙

倦怠(けんたい)感を抱えたまま家に帰った。28歳のとき、晴美の喜ぶ顔が見たくて無理して買った注文住宅。増えるはずだと思っていた家族は増えず、とうとうこの2階建ての家に1人で住まなければいけなくなった。

夕食はチャーハンを作った。晴美が亡くなってからは食事も楽しくなくなったから、毎日ほとんど同じものしか食べていない。

つけっぱなしにしてあるテレビをぼうっと眺めながら、一郎はこれからのことを考えた。

働く意味も分からないが、家に居続ける意味もない。1人で何かをしようにも、晴美なしでやることが楽しいとは思えない、俺は……

一郎が途方に暮れていたとき、とあるニュースが目に入った。

それは自殺者が急増しているとのニュースだった。

その瞬間、天命が聞こえたような気がした。

「……そうか、自分で終わらせればいいんだ」

思い立った一郎は慣れないインターネットで情報を調べた。検索すると一番上に、カウンセリングの勧めと電話番号が表示された。インターネットってやつは賢いなと感心した。

できるだけ苦しくない方法を探した。

練炭を使う方法が人気があるようだった。しかし1人で準備するのはあまりに骨が折れるし、ホームセンターへと買いに行けば店員から不審がられるかもしれない。却下だった。

電車に飛び込もうかとも考えたが、他の人に迷惑をかけるのは忍びない。それに最寄りは特急が止まる駅なので、素早くひいてはもらえないだろう。“ゆっくりひかれると死ぬほど痛い”と口コミに書いてあった。これから死ぬのに、死ぬほど痛いというのはどういうことなのだろうか。一郎は少しだけ口コミの意味を考えて、これも却下した。

こうして一郎はいろいろな自殺の方法を生き生きと調べ続けた。

何か目的ができると、自然とそれ以外の行動にも張りが出るから不思議だった。一郎はいつ死ぬことになってもいいように、家の整理を始めた。

家のローンは払い終えている。家を相続する相手もいないので、残しても心配ないと一郎は考えていた。とはいえ、晴美の遺品などは残しておくわけにもいかないと思っていた。晴美の私物を無関係の人間に見られるのは嫌だったのだ。

最初に手をつけたのは、病院から持ち帰った晴美の荷物。晴美が亡くなって以降、寝室に放置していた。一郎が処分するものを仕分けていると、とある詩集が目に入る。まだ本を読む元気があったとき、最後に読んでいた本だった。ページを開くと、1枚の紙が床に落ちた。

栞(しおり)かと思って手に取るとそれは紙を折り曲げたものだと分かった。きれいに折られた紙の内側にはびっしりと晴美の文字が記されていた。

それは晴美から一郎に宛てられた手紙だった。

拝啓 一郎さん

一郎さん、まだちゃんと生きていますか?

一郎の頰を音もなく涙が伝った。

●晴美が最後に一郎へ届けたかった「言葉」とは……? 後編【「保健所の犬を引き取るように」全てを見抜いていた亡き妻からのミッションで「変化したこと」にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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