誰からも愛された広島、近鉄で活躍した清川栄治さん 明石で見た隠された才能は忘れない もう一度会いたかった【悼む】

  広島時代の清川栄治さん

 広島、近鉄でリリーフ投手として活躍した西武の投手育成アドバイザー・清川栄治さんが、5日に悪性腫瘍のため東京都内の病院で死去した。13日、西武が発表した。62歳。京都府出身。左のサイドハンドの変則左腕として通算438試合全てにリリーフ登板。地味な存在ながら清川さんは、チーム関係者、報道陣など誰からも愛された。

   ◇  ◇

 2013年のオフだった。西武のコーチに就任する際、清川さんから「西武から連絡があった。行ってくるよ」と球界復帰の報告を受けた。

 「西武に親しい人がいたのですか?」

 「いや。なんで声がかかったか分からないんだ」

 球界は狭い。いい評判も悪い評判もすぐ広まる。清川さんは間違いなく前者だ。西武は14日の1、2軍の試合で喪章を付けて試合に臨むというのだから、チーム内の評判もよかったと想像できる。

 だれに聞いてもきちょうめんでまじめでいい人。敵がいない。加えて話術にもたけ、ユーモアもある。食事に出かけるとアルコールが進むにつれ陽気になる。マイクを持てば歌唱力は一級品だ。

 そしてもう一つ、隠された才能があった。

 あれは清川さんが広島の2軍コーチ時代。神戸遠征時に宿舎のある明石市内で食事をした。最後のシメで訪れたJR明石駅近くのお好み焼き店。壁には当時の2軍選手の似顔絵が、はがき大の用紙に描かれ並んでいた。

 聞けば「清川画伯」の作品という。選手の特徴をつかんだ似顔絵はプロ級だ。「何でもできますね」と言うと笑った顔が今も忘れられない。

 清川さんが大病を患っているという話を聞いたのは、昨年の晩秋だった。連絡をとるか逡巡していた12月、関西に来ていた安仁屋宗八さんに相談するとすぐに電話をしてくれた。

 電話を代わってもらったが、何を言っていいか分からず「治療を頑張ってください」と言うしかできなかった。

 そして私の東京転勤を伝えると「来年、暖かくなったころにごはんでも行こう」と言ってくれた。「所沢まで行きます」というと「国分寺だよ」という会話が最後となった。

 なぜ西武から声がかかったのか真相も知りたかった。似顔絵も書いてもらいたかった。まだまだいろいろ話したかった。安らかにお眠りください。(デイリースポーツ・岩本 隆)

© 株式会社神戸新聞社