「保健所の犬を引き取るように」全てを見抜いていた亡き妻からのミッションで「変化したこと」

<前編のあらすじ>

病気で妻の晴美(55歳)に先立たれた一郎(53歳)は失意のなかで葬儀などを終えた。2人のあいだに子どもはおらず、両親も他界している一郎は天涯孤独になった。仕事を休職した一郎は妻との思い出の場所を巡りながら、もう生きる意味などないのでは……と考えてしまうが、妻の遺品のなかから一通の手紙を見つける。

亡き妻から与えられたミッション

晴美は全てを見透かしていた。一郎が自ら死を選びかねないことを悟っていた。

手紙のなかで晴美は一郎の選択に共感をしながらも、生きていてほしいという思いをつづっていた。

一郎はその場に座り込み、子供のように泣きじゃくった。

何て情けないことをしていたのだろう。

自殺の方法を調べては却下している今だけではない。一郎は晴美が重い病気になってから、悲しみに暮れる姿を見せ続けてきた。

晴美が安心して先立つことすら、させてやれなかった。

一郎はひとしきり泣いた後、手紙をリビングに持って行き、そこで腰を据えてゆっくりと読む。

晴美の言葉の1つ1つがとても温かく、一郎は大事にその言葉を味わいながら読んだ。

手紙の最後に晴美は「保健所の犬を引き取るように」と書いてあった。

晴美は犬が好きで、常々飼いたいのだと言っていた。だが、晴美は犬アレルギーで、ついに晴美の生前に犬がわが家の一員になることはなかった。

すぐに最寄りの保健所の場所を調べた。一郎は翌日朝一番に保健所へと向かった。

もう、自殺のことなんて頭の中から消えていた。

保護犬との対面

とはいえ、保健所に行っても即日で保護犬を引き取れるわけではない。

きちんとした受付、そして犬を飼うに当たって必要事項の講習を受けなければならない。所員から教わった通りにブルーシートやケージを買った。さらには飼育状況まで徹底的に調べられた。

「お仕事は何をされていますか?」

「あ、あの商社で働いています」

「ワンちゃんは一生涯で約200万ほどかかると言われています。ここにいるのは成犬が多いので、ここまでではないですが、大丈夫ですか?」

係員に聞かれて、一郎はしっかりとうなずいた。

「はい、仕事はちゃんとありますので、大丈夫です」

係員が満足そうにうなずいたとき、一郎は仕事を辞められないと引き締まる思いがした。

最後に写真を見せられ、引き取る犬を選ぶ。

一郎はパグを希望した。

パグは晴美が特にお気に入りの犬種だった。理由は顔が一郎と似ているから。

自分と似たような不機嫌面と一緒に生活をするか悩んだが、晴美がかなえられなかった夢をかなえたかった。

それから数週間がたって、いよいよパグを迎える日が来た。

物置になっていた部屋を整理し、そこをたぬきち――(パグは「たぬきち」と命名した)専用の部屋にあつらえた。愛犬家はきっと世の中にたくさんいるが、個別の私室を持っている犬はそういないはずだろう。これなら晴美も満足してくれるだろうかと、仏壇に向けて得意げにほほ笑んでみた。

だが自信に溢(あふ)れていられたのもつかの間、いざ折りたたみのケージから外に出してみると、たぬきちは部屋の隅で身構え、警戒心をこれでもかとあらわにした。

「ほら、たぬきち、こっちへおいで」

一郎はたぬきちと呼ぶ。しかしたぬきちは近寄ってこなかった。何度か根気強く挑戦してみたのだが、結果は同じ。どうしても距離を取られてしまった。

さらに問題なのが食事だった。

一郎はたぬきちに何度もドッグフードを与えようとしたのだが、たぬきちは一向に口をつけてくれなかった。

丸1日必死でやってみたが、結局、たぬきちは餌を食べてはくれなかった。

このままではたぬきちが大変なことになると一郎は焦った。

信頼関係の構築

翌日、一郎はとあるところに電話をかけた。

「あら、一郎さん。どうかしたの?」

相手は尚子だった。

これも晴美の教えだ。尚子は犬を飼ったことがあって、とても詳しいらしい。困ったときは頼るよう、手紙にも書いてあった。

「実は、最近、犬を飼いだしたんです。たぬきちという名前のパグで、オスの……」

「あら~、そうなの~。晴美もね、犬を飼いたがっていたから、きっと天国で喜んでいるわね。それで、何か相談事?」

妙に話が早いなと思った。きっと尚子は晴美から“うちの夫が犬のことで連絡するかも”というような話を聞かされていたのだろう。晴美は本当に世話焼きで、そんな晴美がどうしようもなくいとおしかった。

「……はい、ご相談したいことがありまして、たぬきちが餌を食べてくれません」

「あら」

「保健所の係員の方から教えていただいた餌を与えているんですが、もうどうしたらいいのか……このままではたぬきちが飢えてしまいます!」

「落ち着いて? それはね、きっと信頼関係がまだできてないからだと思う」

「信頼関係?」

「保健所に引き取られていた犬っていうのはいろいろな事情があるんだけどね、やっぱり心に傷を持ってて、人間をすぐには信用してくれないの。だから時間をかけて、信頼関係を作らないと難しいかもしれないわね」

信頼関係の構築。一郎が1番避けていたものだ。しかし今はそんなことを言ってられない。たぬきちの命が掛かっている。

一郎は尚子に礼を述べて、電話を切り、ケージの中でおとなしくしているたぬきちの前に座った。

「なあ、たぬきち。いきなり俺みたいなヤツと一緒に住むことになって、それは嫌だろうな。俺が犬好きじゃないっていうことはもう見抜いているんだろ?」

たぬきちはうつろな目でこちらを見ている。何の反応もない。

信頼関係を結ぶというのは一郎にとって1番難しいことだった。成功したのは晴美だけ。晴美とどうして知り合えたのか、それを思い出していた。

高校時代に付き合ってほしいと晴美から言われ、交際が始まった。しかし一郎は付き合うというのが気恥ずかしく、交際から半年がたってもそんな思いがあったため、晴美を突き放すようなことを言ってしまった。

そのとき、晴美が怒り、それに一郎も応戦。一郎たちは激しい口論になったのだが、いつしか、お互いに対する素直な気持ちを言いあうようになり、思いがつながったのだ。

後にも先にもけんかはその1度だけ。だが、それが重要だった。正直な思いを口にすること。それが信頼関係を結ぶ上で大事なことだった。

「たぬきち、一緒に年を取らないか? 1人はとても寂しいよ。俺は空っぽだ。だからお前が俺のことを埋めてくれ」

しばらくすると、たぬきちがのそりと体を起こし、ケージを出た。

そのままゆっくりと容器に顔を入れて食事をしてくれた。一郎はその光景を黙って見続けた。

その日の夜から少しの間、一郎もケージの横に布団を敷いて一緒に寝た。

たぬきちとの新しい生活

それからたぬきちは元気になり、一郎の生活も一変した。

少しずつではあるが、職場でも周囲の同僚たちと交流をするようになった。

たぬきちがいることで、人生にまた彩りが戻ったのだ。

出社前の時間に、晴美との思い出の公園をたぬきちと散歩するのが日課になった。ゴミ袋を携帯して散歩がてら見つけたゴミを拾っていく。

前のように池の匂いはもう気にならないし、晴美との思い出が色あせることもない。黄金色をした晴美との日々の隣に、たぬきちとの新しい思い出が増えていった。

「ほら、たぬきち、あんまり急がないでくれ。私はもう年なんだから」

一郎はたぬきちに声をかけながら笑う。

残された人生、晴美に見守られながらたぬきちとできるだけ多くの思い出を作ろう。

そう思うだけで、一郎は未来がほんの少しだけ楽しみに思えた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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